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Andante (アンダンテ) 
音 羽 教 室 1:1個別指導専科

[2021年3月26日]

25号:放課後の豆知識;25…「紙幣」と「女性」

日本の紙幣の歴史は建武の新政時の1334年:建武元年に、内裏造営資金確保を目的として発行された
とされる楮幣に始まる様ですが、記録のみで実物は現存せず、発行の事実にも疑問が残るそうです。

その後の藩札旗本札などを経て、明治に入ると太政官札民部省札明治通宝(ゲルマン札)
国立銀行券に至りますが、この頃の国立銀行国営銀行ではなく、の法律に則っててられた銀行を
指すもので、民間資本による設立・経営でした。当時の銀行券は民営の各国立銀行が各行毎に銀行券の
発行を担っていました。西南戦争(明治10年)期には西郷軍による西郷札の発行などもありました。

1873年(明治6年)の国立銀行条例〜1884年(明治16年)兌換銀行券条例制定までの上記の様な期間を
経て、銀行券の発行が日本銀行の独占となり(日本銀行券)、インフレの根源だった政府(発行)紙幣
国立銀行券は次第に市場から回収されていった様です。

上記の期間中の明治11年:1878年に日本史上で初の女性の肖像が採用されたのが政府発行紙幣の
1円札神功皇后と言われます。名義は大日本帝国政府紙幣で、日本銀行券ではありませんでした。
1882年の日銀設立に伴い、上記の様に他の政府紙幣と同じく神功皇后札も回収されていった様です。

二人目の女性肖像図案の紙幣には、大正・昭和を跨ぎ、100年以上も飛び越さなければなりません。
2004年:平成16年の11月1日発行の五千円札での樋口一葉の登場を待つ事となります。そして、
三人目として予定されているのが、2024年:令和6年の上半期が目処とされている五千円札の
津田梅子です。日本の紙幣史上では予定も含めてこの三人の女性とされるのですが、番外と言うか、
例外と言うか、とても肖像画とは言えないとは思うのですが、紙幣の図柄としては一葉さんと梅子さんに
先んじて、もう一人いる事になります。それが二千円札紫式部です。

二千円札は2000年:平成12年の7月に発行されました。しかし、聖徳太子も福沢諭吉も樋口一葉も
紙幣の図柄なのに対して、紫式部は源氏物語絵巻(光源氏・冷泉帝)と共に側の図でした。
しかも、引目鉤鼻の意匠そのままに、但し書きが無ければ、それが誰かも判別し難い図柄です。

二千円札に描かれているのが、先年失火の被害に遭った首里城…その守礼門でした。北殿・南殿と
正殿は残念でしたが、守礼門は難を逃れた様で何よりした。「琉球は守礼の邦と称するに足る」とする
明王朝十四代皇帝:万暦帝の詔勅にある文言に由来すると言われるのが、首里城守礼門です。
万暦赤絵にもその名を遺す万暦ですが、『明史』では「明朝は万暦に滅ぶ」と酷評されている様です。

さて、紫式部樋口一葉津田梅子に関しては今更ですが、神功皇后に関しては以前の豆知識2:古墳
でも触れた様に実在自体に賛否が分れている様です。神功皇后は古代氏族:息長(オキナガ)氏の出身と
されています。息長は琵琶湖東岸:米原付近に実在した地名で、これも豆知識:8に少し出てきました。

文献的な資料に乏しい様ですが、上古の息長氏は琵琶湖から淀川水系の河内や瀬戸内の播磨・吉備の
辺りに勢力を持っていたらしく、その基盤は製鉄や水運にあったと言われている集団です。物資の運搬や
人員移送、武具・農具となる鉄を担保していた近畿・畿内の氏族には朝廷も一目置いていた事でしょう。

尤も、日本神話での神功皇后の役割が巨大でも、その功績だけで最初の女性肖像紙幣に採用された
訳ではなさそうです。神功皇后の事績とされるもので顕著なのは…熊襲征伐三韓征伐摂政69年かと
思われます。当該紙幣の発行は明治11年、西南戦争の翌年です。また、明治8年には江華島事件なども
起こっており、その様な世相を背景に神功皇后の壱円札が発行されたとする見方もある様です。

色々な計算方法や諸説もあるので、確定し難いのですが、当時の壱円は今の1〜2万円程度の様です。