[2021年3月26日]
江戸期の改革と言えば、吉宗の享保の改革・定信の寛政の改革・忠邦の天保の改革の三大改革が
有名ですが、1867−1603=264年も続いた江戸時代ですから、当然の様に行政改革も3回程度では
済むハズも無く、更に多くのテコ入れが行われていました。
三大改革のうち、最後の天保の改革は実質上の失政で、却って幕府の弱体化を露呈した様なもので、
1841年〜1843年の2年程の期間で頓挫しています。天保の改革期に名を揚げたのは遠山景元くらい
かもしれません。『遠山の金さん』や『江戸を斬る』の主人公のモデルとして知られる…桜吹雪の彼です。
天保の改革に対して、享保の改革は吉宗の将軍継承1716年〜公事方御定書の制定された1742年迄
としても26年に渡ります。定信の寛政の改革は、享保の改革には及ばないものの、1787年〜1793年と
6年に及びます。享保の改革と寛政の改革の期間の差は、片や将軍・他方は老中と言う立場の相違も
其々の政治主導期間には影響を与えていると思われます。老中職には失脚もあります。尤も、享保期と
寛政期の狭間の田沼時代:田沼意次は1772年〜1786年の14年も老中の職に就いていた様ですが…。
さて、吉宗です。幼少時は結構やんちゃだった様です。某時代劇のタイトルも満更ではありません。
彼の母は側室で、夭折した次男も含めると四男でもあり、本来であれば御三家:紀州藩を継ぐ立場では
無かった様です。しかし、三代目紀州藩主の長男が病死し、三男の四代目も半年を待たずに病没、
22歳にして紀州藩主になった彼は継承に際して5代将軍:綱吉から偏諱を授かり、吉宗と改名しました。
藩主継承後は財政も含めた藩政改革を成し遂げます。紀州藩主としての治績は約10年半で、その間に
側室との間に長男:徳川家重(9代将軍)と次男:徳川宗武(御三卿・田安家:初代当主)をもうけています。
その後、7歳で早世した7代将軍:家継の後を受け1716年に8代将軍となり、幕政改革を行う事になります。
御三卿(ごさんきょう)は江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した大名家の総称で、姓は徳川です。
各家の通称は各屋敷地から最も近い江戸城の城門の名称に由来しています。将軍家の身内として認識
され、経済的にも大きく依存しており、江戸時代には独立した藩が置かれる事はありませんでした。
つまり…御三卿の当主は常時江戸城内にあって、領国経営や藩政運営の必要が無く、藩や領地も無い
為に参勤交代も無く、実質的な職務は無かった訳です。しかし、江戸城では幕政の担い手の老中や大老
よりも上位の席次だったので、政治への強い関与も可能で、江戸後期の政争激化の一因とされています。
その御三卿:田安家の初代当主:徳川宗武の七男が定信です。松平定信は徳川吉宗の孫に当たります。
尤も、吉宗は1751年に他界し、定信は1759年の生誕ですので、会う事は無かった訳です。定信の実母も
祖父の吉宗・父の宗武と同様に側室でした。奇しくも…と言うより、慣例的な必然だったのかもしれません。
老中職には譜代大名が就任する事が江戸幕府の不文律でした。定信が養子となった白河の松平家も
譜代大名の一家でしたので、定信の老中就任は原則通りでしたが、彼の祖父が将軍:吉宗だった事は
定信に親藩(家康の直系の子孫で大名に取り立てられた家)に準ずる待遇を与える結果となりました。
定信が養子となった頃は10代将軍:家治の子の家基が健在で、定信の将軍後継の可能性は薄く、
寧ろ松平家へと養子に出され、その後に幕閣へ進んだ定信は自己の出自を活かしたとも言えそうです。
しかし…老中首座に抜擢された定信が仕えた11代将軍:家斉は、出生は一橋家で、その四男でした。
御三卿:一橋家は…定信の父:宗武の腹違いの弟:宗尹が初代の当主となりました。家系図的に言うと、
叔父(父の弟)の孫に当たるのが、定信より十四歳年下の家斉です。家斉は、先出の家基が急逝した為に、
1781年に家治の養子となります。定信が松平家の養子となったのは僅かその7年前…1774年の事でした。