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Andante (アンダンテ) 
音 羽 教 室 1:1個別指導専科

[2021年3月26日]

35号:放課後の豆知識;35…「選挙」と「テスト」

選挙とは、投票により首長や議員又は団体の代表者や役員を選ぶ事ですが、それとは別に、
古代中国では官吏登用制度を指す用語で、科挙以前の制度名が選挙でした。語源としては
「郷挙里選」前漢において、地方の郷・里の郷長・里長が、当地の地方官と協議した上で、
官吏候補者となる人材を国に対して推薦する制度…「選抜」して「推挙」した訳です。

この「選挙」システムでは、選ぶ主体は中央政府…ひいては皇帝だったので、現在の選挙とは
主旨が全く異なります。この漢代の選挙システムが六朝時代には九品官人法へと移行し、
隋・唐を通じて科挙制度へと発展していく事となった様です。中国歴代王朝の正史には
「選挙史」と言う項目がありますが、これは官吏登用制度に関しての記録と言う事になります。

従って、「科挙」とは「目による選と言う事ができそうです。隋唐以前は、権力者や貴族、
あるいは彼らの子弟達が役職・要職を占める時代が長く続いていましたが、文帝に至り、
初めて科挙が導入されたと言われています。科挙は時の皇帝が行う国事行為の1つでした。

科挙の始まりの日時は定まっていない様ですが、概ね西暦600年前後と言われています。
科挙の廃止は清朝の1904年とされていますので、1300年も歴代中華王朝を通して実施され、
最盛期には3000倍に達したとも言われる資格任用制:メリット・システム(merit system)でした。

上記の様な性格を持つ科挙でのカンニング行為に対する罰則は重く、場合によっては
死刑とされた例も記録には残っているそうです。廃止された理由は、ご想像の如し、です。
形骸化し、政治・経済・民政が軽視され、詩文・典籍の素養のみが肥大化した為と言われます。

日本での科挙導入は平安時代に入ってからとされています。しかし、官僚育成機関としては
大学寮やその前身に相当する仕組みが大化の改新後の天智天皇の頃から存在した様で、
日本書紀懐風藻などに関連の記述が見出せるそうです。尤も、或る程度確立された制度
としては、壬申の乱(672年)を経て、大宝律令下での学制の制定を待たねばなりません。

平安時代の初期には、科挙に合格し、庶民から四位にまで昇進した稀例も残っていますが、
上級貴族には蔭位の制という別ルートもあったので、早くも平安後期に日本の科挙は形骸化
してしまった様です。蔭位とは…律令制体下で、高位者の子孫を父祖である高位者の位階に
応じて、任官始期から一定以上の位階に叙位する制度で、父祖のおで叙する意味です。

源氏物語の「少女」の帖では、光源氏が実子:夕霧の元服に際して六位に付かせます。
六位と言っても、決して低過ぎる階位ではないのですが、父の光源氏が内大臣である事を
考えると、世間では夕霧は四位辺りではないか?と推測されていた…様です。摂関時代、
庶民からは到達点の四位が、上級貴族の子弟では出発点であった事が窺える内容です。

少女の帖には元服後の夕霧が大学寮に入る為のテスト対策の様子も描かれています。
それによると大学寮に入るにも口頭試問の様な試験が課せられていた様にも見えます。
大学寮の学生(がくしょう)には先ず寮試が課せられます。その「寮試」に合格すると、
擬文章生(ぎもんじょうしょう)になれます。次に省試に合格すると文章生(もんじょうしょう)
になります。大学寮は式部省の管轄下だったので、省試の名がついています。

最終試験が「方略試」とか「秀才試」と呼ばれる試験で、これらは別名対策とも呼ばれて
いた様です。「対策」の名称は、策問と言う質問(試験)に対して自己の答案をとして
献じた試験の形式が由来とされています。この対策と言う試問を受験し、その結果によって
官職に就けた…様なのですが、この対策のプロセスにも諸説・諸例がある様です。

文章生の一部には得業生(とくごうしょう)として大学に残り、博士を目指した者もいた様です。
擬文章生 20名 予備学生(文章生候補)
文章生   20名 文章道の正規生
一部とは…文章生20名の内、成績上位者2名が得業生への狭き門だったそうです。