[2021年3月26日]
その6
日本初の野球場が新橋にあったのはご存じでしょうか。【日本初+新橋】…と言えば、
最初に思い出すのは鉄道ですが、日本での野球場と鉄道には関連があります。
「日本の野球の祖」と呼ばれる平岡凞(ヒラオカ ヒロシ)は1871(明治4)年に16歳で米国に留学。
米国公使として赴任する森有礼に伴われサンフランシスコに到着すると、機関車に衝撃を受け、
機関車両製造技術を学びました。その後、語学力を買われ岩倉使節団で通訳の1人となった際、
木戸孝允・伊藤博文の面識を得たと言われます。後年、森有礼も初代の文部大臣となりました。
平岡は米国留学時に機関車両・機械類製造技術及び野球を修得、1876(明治9)年に帰国。
帰国後は伊藤博文の紹介で工部省鉄道局に入局します。当時の工部省の官舎は新橋でした。
帰国時、野球道具も日本に初めて持ち帰った平岡は鉄道局の工場仲間や学生達を集めて、
日本で初めての野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成すると、同1878(明治11)年には
新橋停車場構内に日本初の仮運動場もつくりました。
それから4年後の1882(明治15)年には野球場を新設し、これを「保健場」と命名したのですが、
これが本邦初の野球場とされています。5年後の1887(明治20)年、平岡の新橋鉄道局辞職に
伴い、新橋アスレチック倶楽部も解散となり、野球場も鉄道用地となった(戻った?)そうです。
ここで少々、米国のスポーツ用品メーカー:スポルディング(SPALDING)について触れておきます。
1876年にアルバート・グッドウィル・スポルディング氏により創立されました。彼はMajor_Leagueの
投手であり、後に監督も務めました。レギュラー投手だった彼は1871年〜1875年の5年で205勝の
勝ち星を挙げ、打率も3割を超える成績を残している…驚異的な数字のプレイヤーでした。
1878年、スポルディングはスポーツ用品メーカーの仕事に専念する為、28歳で野球選手を引退。
草創期の各種球技に様々な影響を与えました。1877年頃に捕球グラブの使用を広め、公式戦で
使用されるボールの標準化にも努めたそうです。1880(明治13)年、そんなスポルディング氏に
日本から写真が届きます。米国留学期に親交のあった平岡から送られたその写真には
ユニフォーム姿で整列した新橋アスレチック倶楽部のメンバーが写っていたそうです。
スポルディングはこれを米国の新聞紙上に紹介、平岡へは野球用具一揃いを何組かを発送した
との事です。当時でも500ドル〜600ドルと高価だったらしいのですが、無償提供だったそうです。
日本野球への顕著な貢献を称え、平岡は1959(昭和34)年に第一号での野球殿堂入りとなります。
また、平岡は日本で初めてカーブを投げた人…とも言われています。
その7:始球式
日本初の始球式は1908(明治41)年11月22日の大リーグ選抜(?)チームと早稲田大学野球部の試合
に先立つ始球式での大隈重信の投球とされています。球はストライクゾーンを大きく逸れるのですが、
大隈の投球をボール球として見逃してはならない…そう考えた早稲田大学の1番打者・山脇正治は
故意に空振りをしてストライクにしました。この事から、投球がボール球でも絶好球でも空振りをする
慣例が始まったとされています。
応援曲の本邦初例でも触れましたが、早慶の野球部は日本野球の創成・発展に大きく寄与した事から、
日本野球のルーツ校的存在とされています。日本の野球草創期には未だプロ野球は無く、大学野球が
大人気でしたが、本格的な野球場は少なく、早大の安部球場(戸塚球場)と慶大の三田綱町野球場は
東京の代表的な野球場でした。
早稲田大学では1901(明治34)年に野球部が結成され、翌1902年10月、戸塚球場を開設しました。
球場開設に際しては、日本の国際化には野球の発展が必要として早大初代野球部長の安部磯雄が
大隈重信を説得したとする逸話が残されています。
戸塚球場は日本初の照明を設置し、ナイターも行われました。後に安部球場と改称。1987年末閉鎖。
安部球場のあった場所は現在では早稲田大学総合学術情報センターとなっています。
投手役に敬意を表し、投球がボール球でも絶好球であっても必ずスイングする…この安部球場発祥の
始球式は今では国内だけでなく、アジア各国や米国でもこの方式で実施する例が出てきている様です。