[2021年3月26日]
現代の東京・・・特に23区を例に採ると、北は板橋区・北区・足立区、東は葛飾区・江戸川区、
南が大田区・世田谷区で、西が杉並区・練馬区・・・が範囲と言えるかもしれません。東京の区部は
面積で言えば、東京都全体の約28.6%で3割に欠けますが、人口は約69%で、7割近くになります。
とは言っても、それは最近の事で、江戸時代でも初期の頃の同地はもっと狭い範囲でした。
例えば、江東区の深川の地名はこの地を開発・埋め立てした深川八郎右衛門に由来します。
また、中央区の築地もその名の通り埋立地です。江戸時代の1657(明暦3)年の明暦の大火の際に
焼失した浅草の西本願寺(今の築地本願寺)の代替地として、佃島の住人によって造成されました。
以前の豆知識でも触れましたが、隅田川の東日本橋⇔両国に架かる橋は両国橋ですが、ここで言う
両国とは武蔵国と下総国の事で、江戸初期の隅田川東岸は江戸や武蔵国ではありませんでした。
武蔵と下総の国境が変更され、武蔵国に編入されたのは1686年の事・・・5代将軍:綱吉の頃です。
武蔵の国と下総の国との中に いと大きなる河あり それをすみだ河と いふ…伊勢物語:東下り
さて、海浜・河川部から陸路に視点を移すと・・・江戸:日本橋は五街道の起点でした。
五街道の各宿場には伝馬の常備を義務付け、道を拡幅、宿場を整備、一里塚を設け、砂利や砂を
敷いて路面を固めたり、松並木を植えるなどの施策が行われました。家康の指示による交通手段の
整備ですが、五街道が正式名称となったのは8代:吉宗の頃と言われています。
東海道(1624年)・日光街道(1636年)・奥州街道(1646年)・中山道(1694年)・甲州街道(1772年)・・・
( )の中の西暦は各街道が完成したと言われている年度になります。
また、五街道とは言いますが、日光街道と奥州街道は起点の日本橋から分岐点の宇都宮までの
17の宿場が重複しており、宇都宮➡日光までは残り4宿を数えるだけです。その結果、江戸に入る
前の各街道には最後の宿場が計4つ存在した事になります。これらを総称して江戸四宿と呼びます。
逆に言えば、江戸日本橋を発ってから最も近い各街道最初の宿場町の事です。
日光・奥州街道は千住宿・・・現在の南千住・北千住付近:隅田川の両岸で、水戸街道との分岐点
東海道は品川宿・・・中世以来の品川湊に近く、四宿でも別格の規模で、目黒川河口付近一帯
中山道が板橋宿・・・北から上宿・仲宿・平尾宿(現在の板橋付近)と連なる三つの宿場の総称
甲州街道の内藤新宿(四谷新宿)・・・現在の四谷4丁目交差点〜新宿3丁目交差点付近一帯
上記が江戸四宿です。お解りの様に、四宿共に現在の23区内ですが、ザックリ言うとこれら四宿の
内側が当時の江戸の範囲となる訳です。23区では千代田・中央・港・文京・台東+新宿区東側・・・
程度の地域です。江戸時代・享保年間以降の江戸府内の人口は70万〜110万程度の範囲内で
推移していた・・・と聞いたことがあります。千代田・中央・港・文京・台東+新宿区東側の最近の
人口も110万人前後の様ですので、人口密度的には今と近い感覚があったのかもしれません。