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Andante (アンダンテ) 
音 羽 教 室 1:1個別指導専科

[2021年3月26日]

45号:放課後の豆知識;45…「天神様」と「相撲」

天神様…と言えば、菅原道真ですが、元々の天神は天津神で、高天ヶ原の神々の総称でした。
道真は没後に天満大自在天神という神格で祀られた事から、天神様=菅原道真になった様です。
道真は昌泰4(901)年正月に従二位に進むも、讒言により同年1月25日に大宰員外帥へと左遷…
有名な「時平の讒言」による昌泰の変です。道真の長男:高視を初め、子供4人も流刑となりました。

しかし、藤原時平と道真の関係は資料を見る限りでは…詩歌や贈り物を交わす間柄でもあった
らしく、時平は文章家としての道真を高く評価していた様なのです。昌泰の変の内実は現在でも
研究の対象ですが、新興の道真に対して反感を持っていた多くの体制側貴族層の圧力や総意が
無ければ、履行し難い政変であった事は推測できそうです。

藤原時平は909年:39歳で他界、9歳若年の実弟:忠平が北家を継ぎます。左遷以前の道真には
時平・忠平兄弟やその父:基経との交流も確認されており、藤原北家と菅原家は良好な関係性を
保っていたと言えそうです。ただ、道長・頼通親子の後代に比べ、良房・基経・時平と連なる頃の
藤原氏は他氏排斥の只中であり、おそらく昌泰の変もその一環として捉えるべきなのでしょう。

上記の様に、時平は昌泰の変の8年後に急死しますが、時平主導による醍醐天皇の治世は後世、
延喜の治として高い評価を受けています。その時平他界の前年、道真の弟子であった藤原菅根
病没しています。菅根は昌泰の変の当時、蔵人頭でありながら、道真弁護に参内した宇多上皇
醍醐天皇に取り次がなかった事で歴史に名を遺した人物です。更に、913年には右大臣源光
遊猟中に泥沼で溺死。923年に醍醐天皇の東宮の保明親王が薨去。930年には清涼殿落雷事件
同じく930年の醍醐天皇崩御など…道真の怨霊に因る…とされる(?)不幸な事件は続きます。

清涼殿落雷事件により道真の怨霊は雷と結び付けられ、朝廷は火雷神が祀られていた北野寺の
寺内社北野神社に道真を祀り、太宰府の安楽寺の道真の廟も安楽寺天満宮に改修されました。
この流れ…或いは、道真本人には不本意な展開だったかもしれません。紫式部に意見を求めたら、
「おのが心の鬼にやはあらぬ」…とでも言われてしまいそうです。

いずれにしても、紫式部の頃には神格化も更に進み、怨霊の側面は薄れ、同時代の栄花物語にも
雪冤を願って太宰府天神を参詣する場面が描かれるなど、冤罪を晴らす神としての信仰も窺えます。
江戸期には菅原伝授手習鑑などが大当りとなり、明治期には五圓札の肖像にも採用されるなど…
道真の神化は時を追って進行しました。しかし、「学問の…」の形容は菅原の家に因む様です。

上段までは昌泰の変から時代を下った訳ですが、以降は道真の頃から些か時代を遡ってみます。
菅原氏の前身は野見宿禰を家祖とする土師氏とされます。古代、葬送を職掌していた氏族の様です。
781年に土師古人が改姓を申し出て以降、菅原を称する様になったそうです。菅原の名は大和国の
菅原邑に由来しています。 一説には奈良から大阪に至る辺りの奈良県西部とされている様です。

古人は儒学を学び、桓武天皇の侍読となり、その子の清公・孫の是喜も儒学を修め、文章博士
勤めました。清公は菅家廊下と呼ばれる私塾を開き、多くの門人が集まり、紀伝道(文章道)を家業と
しました。菅原の4代目:古人の曾孫が道真です。昌泰の変後の903年に道真は大宰府で没しますが、
906年には道真の嫡子:高視は赦免され、大学頭に復帰。高視の子孫も受領や大学頭などに就いた
様です。受領の帰京場面から始まる更級日記の作者である菅原孝標女も道真の後裔の1人です。

土師氏(菅原氏・大江氏・秋篠氏)の始祖とされる野見宿禰は、垂仁天皇の命により当麻蹴速角力
とるために出雲国より召され、蹴速と競り合った末に、その腰を踏み折って勝ち、褒賞として当麻の地…
現在の奈良県葛城市當麻付近を与えられ、垂仁天皇に仕えた…のが相撲の始まりを物語る伝承です。

垂仁天皇の皇后の葬儀の際、従来の殉死に代わる埴輪の制を考案した事で、土師臣の姓が与えられ、
それ故、野見の後裔である土師氏は代々皇室の葬儀を司る役目を担ったとする由来譚が残っています。
埴輪の案出に関しては些か疑問も残る様ですが、野見の名は古墳造営に際しての適地選定作業から
とも考えられており、角力の伝承も土木作業からの類推によるのではないか?とも言われています。

角力…相撲に関しては、土師氏➡菅原氏➡五条家は野見宿禰の子孫である事から相撲司の家となり
ました。また、野見宿禰神社(墨田区亀沢2-8)は両国国技館に近く、日本相撲協会が管理しています。
蛇足ですが、神社の1つ西側の区画の墨田区亀沢2-7は北斎生誕地として北斎美術館が建っています。