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Andante (アンダンテ) 
音 羽 教 室 1:1個別指導専科

[2021年3月26日]

46号:放課後の豆知識;46…「江戸」と「大火」と「五橋」

江戸時代、今の隅田川には5つの橋がありました。千住大橋(1594年)・両国橋(1661年)・
新大橋(1694)・永代橋(1698)・吾妻橋(1774)の順に架橋された様です。年代から観ると、
千住大橋は江戸時代以前に作られた訳ですが、1590年:徳川家康の江戸入府の後であり、
架橋を指示したのも家康と言われていますので、広義で江戸の橋に含めてもOKでしょう。

安藤(歌川)広重最晩年の作に『名所江戸百景』があります。生前には僅かに完成を見ず、
二代目広重の補筆により刊行に至ったと言われます。「百景」のタイトルですが、全119
から成る浮世絵の大作で、後世の欧州印象派にも多大な影響を与えたとされています。

デフォルメ・遠近術・鳥瞰などの画法を差し引いても、当時の江戸の様子を窺う資料です。
「永代橋佃しま」は置くとしても、「吾妻橋金龍山遠望」、有名な「大はしあたけの夕立」
「両国橋大川ばた」「駒形堂吾嬬橋」「両国花火」「千住の大はし」…には、それぞれの
江戸五橋が描かれています。「大はし」は新大橋。「吾妻」と「吾嬬」の混在は…吾妻橋を
雷門側から渡ると、向島側にある「吾嬬神社」への参拝に便利だったからと言われます。

隅田川に限らず、日本では近世末まで大河への架橋には消極的でした。軍事的な防衛が
その理由と説明される事が多いのですが、背面には技術的な架橋の裏付けの無かった
事が挙げられている様です。しかし、そこに大きな一石を投じたのが明暦の大火でした。

明暦の大火(1657年3月2日)は、明和の大火(1772.4.1)・文化の大火(1806.4.22)と並び、
江戸三大大火に数えられます。明暦の大火における被害は延焼面積及び死者が共に
江戸期最大であるとされています。江戸期最悪の火災で、別名:振袖火事と呼ばれます。

江戸市街地の大半が焼失。江戸城の天守も焼け、以降再建される事はありませんでした。
火災に追われ逃げ場を失った多くの人々が隅田川で亡くなりました。その為、両国橋や、
その後の新大橋、更に永代橋が架橋される理由の一つともなりました。

隅田川への架橋は深川地区に代表される隅田川東岸の開発・埋め立て・移住を促し、
1686年(貞享3年)には武蔵国と下総国の国境が変更され、深川・本所などの隅田川の
東岸地域が武蔵国に編入されました。

 初雪や かけかかりたる 橋の上  松尾芭蕉

新大橋の架橋途上の様子を詠んだ芭蕉の句です。深川:芭蕉庵での詠句でしょうか。
また、元禄15年12月14日、本所:吉良邸(現:墨田区両国)に討ち入りを果たした赤穂浪士は
上野介の首級を掲げて、永代橋を渡り、芝:泉岳寺へと向かったそうです。当時の永代橋上
からの見晴らしは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称される程でした。

架橋の他にも明暦の大火後には幕府による江戸の再開発が行われ、火除地が設けられ、
今も地名に残る道路の拡張も行われました。両国広小路上野広小路がその名残です。
吉祥寺や下連雀などは市街火災を避け、郊外や近郊に開かれた移住地とされています。

名所江戸百景にも「筋違内八ツ小路」では火除地や火除土手が確認でき、「下谷廣小路」
は文字通り道路拡幅による延焼防止策でしょうか。しかし、元禄に至ると火除地や広小路
また別の性格を示す様になります。

それまでの火災避難場所としての、或いは延焼防止帯としての火除地・広小路の役割りが
変化していきます。防火体制の整備や江戸市街の共同体の成熟により、防火・避難先よりも、
土地の有効活用としての遊興的な広場としての性格が強くなり、時代と共に歓楽地としての
進展を見せるようになっていきました。

火除地や広小路などでは歌舞伎や相撲なども行われた様で、花見・納涼・月見・花火見物
などで賑わい、その周辺にも来客を見込んだ飲食店・屋台などが増え、江戸風文化が醸成
される土壌となった様です。他にも市場や祭礼の場となったり、様々な発展・適応を示した
様です。大火災で転んでも、ただは起きなかった訳ですね。

1856年から刊行された『名所江戸百景』にしても、その前年の1855年11月11日に江戸は
安政江戸大地震での被害を受けており、震災からの復興を祈念した作品でもあった…とも
言われます。確かに、多版刷り多色彩の画面からは被災直後の様子は見受けられません。
開国・攘夷でも揺れていた…幕末の不安定な世情へのアンチテーゼだったかもしれません。