[2021年3月26日]
日本三大仏…と言うと、日本の大仏の代表的な三尊を指す名数です。先ずは奈良市は東大寺の
奈良の大仏と鎌倉市の高徳院:鎌倉(長谷)の大仏…この二尊への異議・異論は少数派でしょう。
ですが、残る一席は時代とともに変遷しており、現代では確定しない方が穏便なのかもしれません。
また、鎌倉大仏に関しては、その資料が質・量共に足りておらず、由来など不明瞭なままの様です。
よって、今回の主役は奈良の大仏:盧舎那仏像または銅造盧舎那仏坐像と言う名の国宝です。
中尊が圧倒的なので、見過ごされ気味ですが、実は三尊形式の配置です。脇侍(きょうじ)は、
左脇侍(向かって右)が如意輪観音、右脇侍(向かって左)が虚空蔵菩薩と呼ばれているそうです。
廬舎那仏の脇侍に観音像と虚空蔵菩薩を配すのはとても珍しいケースの様です。
740年 聖武天皇、廬舎那仏の造立を発願
743年 盧舎那仏造立の詔
745年 大仏造立開始:現在の東大寺の地にて
752年 大仏開眼供養(4月9日)…鍍金(金メッキ)・光背など細部、及び大仏殿は未完成
聖武天皇が開眼供養を急いだ理由には諸説がある様ですが、752年は日本への仏教伝来の年…
『日本書紀』での欽明天皇13年(西暦552年)から数えて200年目の節目だった事からとする説への
支持が多い様です。また、旧暦の4月8日は釈迦の生誕日(灌仏会:花まつり)との伝承があり、
それが翌日に延びたのは、天候の為とも、聖武太上天皇もしくは光明皇太后または孝謙天皇の
体調面から?とも言われます。また、大仏殿(金堂)の完成は758年の事でした。
724年 聖武天皇即位(24歳)
729年 長屋王の変
734年 畿内七道(諸国)大地震 - M7?(生駒断層直下型)
735年 天然痘大流行…死者多数(〜738年1月頃まで)
737年 藤原不比等の息子:藤原四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)全員が天然痘感染で死去
諸国に造仏・写経、及び丈六釈迦三尊像造立を命じる
740年 藤原広嗣の乱
741年 国分寺建立の詔
743年 墾田永年私財法
745年 天平地震 - M7.9?(岐阜県美濃地方・・養老断層?)
749年 聖武天皇譲位・・太政天皇となる
上段と下段の年表を併せただけでも、多事多難な治世です。更に聖武天皇は740年の広嗣の乱の
最中に美濃へ行幸、そのまま平城京へ帰京せずに、恭仁京(京都府)へ遷都、更に744年に難波京、
745年の紫香楽京への遷都を経て、同年745年に平城京に戻る…様な具合でした。僅か5年の間に
奈良➡京都➡大阪➡滋賀➡奈良の順で皇宮が移転した訳です。
他に、遣唐使1回+遣新羅使5回に加え、727年に渤海の初来邦、739年に二回目の渤海使の来朝。
上記二度の渤海使への送使としての遣渤海使の派遣。更に724年:藤原宇合+737年:藤原麻呂の
東北遠征など…単に国内有事に留まらず、聖武天皇の治世は外交も軍事も盛り沢山でした。
遣使(唐/新羅/渤海)・反乱・東北遠征・国分寺・国分尼寺・大仏・遷都・地震・天然痘…政策の基礎
となる税収は幾らあっても足らない状態でしたが、735年〜738年にかけての天平天然痘大流行では
推計によれば、当時の日本の総人口の25〜35%が感染により死亡したとされ、藤原四子だけでなく、
朝廷中枢部も大半が罹患→死亡した様です。生産人口の激減に伴い、税収も大幅に減ったそうです。
当時、既に聖武天皇の治世以前から、班田収授法は機能的にも法制的にも満足な状態からは遠く、
長屋王による722年:百万町歩開墾計画+723年:三世一身法も決定打とはなっていませんでした。
743年の墾田永年私財法はパンデミック+土地・租税制度の不備+税収不足などが複合的に絡み
合って発布されたものと言えそうです。同様に、鎮護国家の仏教も時の世情の必然だったのでしょう。
信仰は世相を映す鏡とも言われますが…天平時代は、その具象が大仏だったのかもしれません。