[2021年3月26日]
かつて大分には瓜生島と呼ばれる島があったと言われています。別府湾奥の陸地に隣接する
位置に在ったそうなのですが、一夜にして海中に没したとされている様です。NHKで放映された
ジオ・ジャパンでも取り上げられました。宣教師のルイス・フロイスなども言及している様ですが、
瓜生島には大きな港もあり、他の宣教師が立ち寄った記録も散見されているそうです。
瓜生島は1596年9月4日(文禄5年閏7月12日)の慶長豊後地震により海中に没したとする説が
一般的な様です。まんが日本昔ばなしでも「瓜生島とえびすさま 」のタイトル(652話)で瓜生島の
説話が紹介された事があります。今昔物語には、これとよく似た山頂の仏塔の話があります。
瓜生島海没の真偽は定かではありませんが、慶長豊後地震は確実視されている史実です。
また、この地震は連動型とみられ、その前後にも大きな地震の記録が残されています。
1596年9月(文禄5年閏7月)に近接した以下の三地震はその連動性を指摘されています。
9月1日(閏7月 9日) 慶長伊予地震(慶長伊予国地震):M7.0?
9月4日(閏7月12日) 慶長豊後地震(大分地震):M7.0〜7.8?
9月5日(閏7月13日) 慶長伏見地震(慶長伏見大地震、文禄の大地震):M7.0?
ご賢察の通り、もしこれら3つの地震が連動型なら、その根源は中央構造線に求められます。
中央構造線のズレに伴って、周辺の活断層が原因となった可能性が濃厚と言える訳です。
さて、現在の文京区にも大仏と呼ばれる仏像があります。一つは本駒込の吉祥寺(座像6m)に、
もう一つは大塚の護国寺(座像2.5m)に、共に釈迦如来像とされています。大仏は奈良・鎌倉に
限らず、各地にあります。例えば、京都大仏と言えば、金剛華寺の釈迦如来坐像(7.5m)の事
ですが、過去には金剛華寺のある東山に別の大仏がありました。勿論、今は失われています。
一つは東福寺の釈迦如来坐像で、15mもあったそうですが、1881年(明治14年)12月の大火で
焼失しています。因みに、鎌倉大仏は阿弥陀如来坐像で11.4m、奈良の大仏が14.7mです。
東福寺は『名探偵コナン 迷宮の十字路』でも舞台となった臨済宗東福寺派の大本山です。
寺名は奈良の東大寺・興福寺の二大寺から1字ずつを頂いたとされている名刹です。
もう一つは東山の方広寺にありました。東大寺大仏と同じ廬舎那仏座像ですが、こちらは19mも
あった…とされています。方広寺…と聞くと、ピン!とくる方もおられるのではないでしょうか?
慶長19年(1614年)に完成した梵鐘の銘文のうち、「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の
家と康を分断し、豊臣を君主とし、徳川家を冒瀆するものとされ、最終的には大坂の陣による
豊臣家の滅亡を招いたとされる…名高い鐘銘事件の現場となった…あの方広寺です。
戦国時代末期、松永久秀の焼き討ちで損傷の激しかった東大寺の大仏に代わるものとして、
豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として創建されたのが方広寺です。
造営期間短縮の為、秀吉の大仏は木造(漆膠)で造られた(1595年)と『太閤記』にあります。
しかし、この大仏は完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月に発生した上記中の慶長伏見地震に
より倒壊します。これに際し、秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したとされ、
不遜な事に、大仏の眉間に矢を放ったと伝えられています。方広寺の大仏は、この後、息子の
豊臣秀頼により再建されますが、落慶法要直前に件の方広寺鐘銘事件が起こります。
また、1662年6月16日(寛文2年5月1日)の寛文地震(寛文近江・若狭地震)はM7〜7.6の規模で、
秀頼の大仏(銅製)はこの寛文地震で破損し、次の三代目は木造での再建となります。しかし、
この三代目の大仏も寛政10年(1798年)の7月、大仏殿に雷が落ち、全焼します。
その後、天保年間に至って、旧大仏を縮小した肩より上のみの木製の大仏像と仮殿が有志に
より寄進されたのですが、昭和48年(1973年)3月28日深夜の火災で、この像もまた焼失します。
京都市消防局のHPには、この時の方広寺火災事件の写真が掲載されています。
https://www.city.kyoto.lg.jp/shobo/page/0000159532.html
東京富士美術館(八王子市)の洛中洛外図屏風(狩野派)には、方広寺大仏の姿は描かれていま
せんが、大仏殿の外観+「大仏」の文字が確認できます。屏風は江戸初期の作とされています。