[2021年3月26日]
言はぬをも いふに勝ると知りながら 押しこめたるは 苦しかりけり (源氏物語:末摘花より)
言葉にしない事は、言葉にするよりも強い思いがあると知っているが、沈黙は苦しいものです…的な
意味の歌です。また鎌倉幕府三代目将軍:源実朝は私家集:金槐和歌集を残しましたが、実朝にも
神山の やました水のわきかへり 言はで物思ふ 我ぞかなしき
…という和歌があります。時代を遡れば、壬生忠岑にも以下の様な歌があります。
風さむみ 声よわりゆく虫よりも 言はで物思ふ 我ぞかなしき
壬生忠岑は古今和歌集選者の1人で、三十六歌仙にも数えられています。
これらの歌の「言わないor言葉にしない」➡『言はで』は大和物語の152段に、その由来譚(?)と
おぼしき話が確認できます。大和物語は作者(編者)未詳の歌物語の短編集で、「いまそかり」の
の多用も特徴の一つとされます。「いまそかり」はラ変動詞:「あり」・「居り」の尊敬語です。
奈良の天皇(平城天皇)は陸奥国磐手郡から献上された鷹を気に入り、「磐手(いはて)」と名付け、
鷹に慣れた大納言に預けたが、この大納言がその鷹を逃がしてしまい、捜索しても鷹は見付からず、
大納言は奏上をためらっていましたが、数日後に天皇に伝えると、天皇は何も言わず無言でした。
大納言が重ねて鷹の事を伝えたところ、天皇は「言はで思ふぞ 言ふにまされる」と鷹の名である
磐手に掛けて詠じた…とされるのが152段で、岩手県の名称の起源の一つとも言われています。
この大和物語の「言はで思ふぞ 言ふにまされる」(言わない事こそが言う事よりも思いは勝る)は
下の句だけの記載でしたが、それ故か?上記の様に多くの作歌を生みました。特に有名なのは
中宮:定子と清少納言との遣り取りでしょう。
清少納言が仕えていたのは66代一条天皇の中宮定子ですが、その父で時の関白:藤原道隆が
長徳元年に急逝、次いで叔父の道兼も急死。別の叔父の道長と兄の伊周が威勢を争う中で、
長徳2年(996年)に長徳の変が起きます。その結果、定子は自ら鋏を取り落飾:出家しています。
清少納言には定子の天敵とも言える道長と通じているという噂が立ち、彼女は定子の傍を離れ、
実家に逼塞する様になります。しかし、そんな清少納言のもとへ定子からの手紙が届きました。
そこにはたった6文字…「言はで思ふぞ」とだけ書かれた山吹の花びらが入っていたと言います。
清少納言はこの6文字が古今和歌六帖の一首を指していると察します。つまり、定子は言葉には
出せないが、清少納言の無実を信じている…と言う意味を、この6文字に見出したのでしょう。
心には 下行く水のわきかへり 言はで思ふぞ 言ふにまされる
『古今和歌六帖』 第5帖-2648 雑思:「詠み人しらず」で…言葉にするよりも、もっと確かな思いを
地の底を流れ湧き上がる水の様子に喩えた…そんな歌ではないか?と想われます。
また、この際に山吹の花が選ばれたのは【山吹=黄色=梔子=口無し=寡黙】と掛けて詠まれる
定石を踏まえたものではないか?…と言われている様です。以下に三首、例を引きます。
山吹の 花色衣 ぬしや誰 問へど 答へず くちなしにして (古今和歌集 素性法師)
くちなしの 色とぞみゆる 陸奥の いはての里の 山吹の花 (夫木和歌抄 大江匡房)
来てみれば くちなし色に 咲にけり 岩手の里の 山吹の花 (夫木和歌抄 詠み人知れず)
そして…【磐手➡岩手➡陸奥➡みちのく➡信夫の郡➡忍ぶ】であった?…のかもしれません。
みちのくの しのぶ もぢずり たれ故に 乱れそめにし 我ならなくに
古今集と小倉百人一首で高名な河原左大臣:源融(みなもとのとおる)の歌です。
源融の邸宅:六条の河原の院は源氏物語:光源氏の六条院のモデルとも言われています。
【言はで思ふぞ 言ふにまされる】…今頃の、受験日を待つ親心…かくやありなむ、しのぶれど…