[2021年10月21日]
行こか戻ろか 北極光(オーロラ)の下を 露霊(ロシア)は北国 はて知らず
西は夕焼け 東は夜明け 鐘が鳴ります 中空(なかぞら)に
この【さすらいの唄】は、作詞:北原白秋、作曲:中山晋平、両氏の手になる芸術座の劇中歌です。
トルストイの「生ける屍」を基にしたとされており、オーロラを極光と書く点からも、極地の現象と
言えそうです。しかし、地図上の極地と地磁気の極が必ずしも一致している訳ではありません。
現在でも北極点と地磁気の北極にはズレがあり、2010年のデータによると、地磁気北極は
北緯;80.0/西経;72.2…辺りにあるとされている様です。おおまかな地理的地図上では…
グリーンランド島の西側、海峡を隔てたエルズミーア島の北部…と言う所になります。また、
陸地も磁場も不動ではないので、磁極・磁場と地理上の地点は常に微細に変化している訳です。
例えば飛鳥時代、日本の磁気緯度は現在より約10度ほど高かったとされています。つまり、
その分だけ当時の日本は地磁気の北極に近く、磁気嵐などの発生に伴うオーロラが現在よりも
高い頻度で視認できた事になります。
「日本書紀」には、推古天皇28年(620年)に以下の様な現象が観測された記録が残ります。
『十二月庚寅朔 天有赤氣 長一丈餘 形似雉尾』
「…天に赤きしるしあり。長さ一丈あまり。かたち雉の尾に似れり。」
中緯度の環帯で見られるオーロラは赤く扇状ものが多い事から、それを雉が尾を広げた姿に
見立てたものと推測されています。赤気はルイス・フロイスの「日本史」にも記録されています。
過去2000年の磁気緯度に関する国立極地研究所の計算によると、1200年頃は地磁気の軸が
現在とは逆に日本の方へ傾いていた為、最もオーロラの観測に恵まれた時期だった様です。
藤原定家の日記:「明月記」には治承4年(1180年)〜嘉禎元年(1235年)までの約56年間に及ぶ
克明な記録が綴られていますが、そこにも赤いオーロラの視認と想われる記載が残っています。
秉燭以後 北并艮方有赤気 (燭台に燈を灯す頃、北及び東北の方向に赤気が出た。)
如此白光 赤光相交 (このように白光と赤光とが入り交じっている。)
上記は元久元年正月十九日(1204年2月21日)の記述からの抜粋です。明月記は定家自筆の
日記であり、文学的にも歴史資料としても別格の価値を持ちますが、天文関連の記載も多く、
2019年には日本天文学会により【日本天文遺産】に選定されています。
通常、オーロラの低層は緑で、高層は赤ですが、赤橙黄緑青藍紫(セキ・トウ・オウ・リョク・セイ・ラン・シ)
の順なのは虹の色と同じですので、青や紫のオーロラは出現率が低いと言われている様です。
日本・中国・西欧の様な中緯度地方で、オーロラの赤色部が観測されるのは地球の丸みの為、
上部の赤いオーロラしか見えない事や、オーロラ発光部分の上端が上空1,000 km以上に伸びる
事などの物理的な理由も考えられるそうです。
漢の高祖:劉邦は戦に強かった異形の古代神:蚩尤にあやかり、蚩尤を象徴する「赤」を漢国の
旗色に採用しました。これを蚩尤旗と呼びます。漢の赤旗は古代神:蚩尤に由来します。蚩尤旗と
言えば赤い旗、もしくは彗星を指す言葉ですが、「史記」の天官書には『蚩尤之旗』と言う天文用語
が確認できます。天官書では…彗星に似て、後ろは曲がり、旗の様な形をしている天象とされおり、
これが中低緯度地域での赤いオーロラ:赤気やその出現時の描写…との解釈もある様です。
蚩尤は古代中国の三皇五帝のうちの黄帝に涿鹿の野で戦いを挑み、「反乱」という行為を初めて
行った存在…と言われています。中国湖南省では、「苗」族の始祖(苗祖)は蚩尤であると言われ、
その姓は「姜」とされます。中国史で姜姓を持つ著名な人物なら…やはり太公望:呂尚でしょうか。