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Andante (アンダンテ) 
音 羽 教 室 1:1個別指導専科

[2021年12月18日]

81号:蕎麦

師走:12月も半ばを越えました。今年も後僅かです。大晦日と言えば、年越しそばですが、近年の
動向では、この年末慣行も6割を割り込むご家庭でしか行われていない…とする調査もある様です。

ソバは穀物の一つと言われますが、コメ・ムギ・ヒエ・アワ・キビなどがイネ科の植物なのに対して、
ソバはタデです。喰う虫も好き好き」のタデです。タデ科では染料となるや、欧州ジャムの
ルバーブ、などが有名どころでしょうか。

現代以前のソバは救荒食として、また品種改良以前のイネ科栽培の北限を越える穀物として、
瘦せた土地や山間部や冷涼地域でその栽培や保存が受け継がれてきたとされています。
一つの説としてですが、例えば19世紀バルビゾン派ミレーは農民画の嚆矢で、有名な『種まく人』
は岩波書店のシンボルマークにも採用されましたが、この小麦ではなく、ソバだったのでは?…
とする説です。ミレーが主に活動したパリ周辺からノルマンディー地方は、19世紀の小麦の栽培北限
を越えていたのではないか?…と説くものです。

クレープと似た料理にガレットがあります。フランスでガレットは円く焼いた料理を意味する様ですが、
日本では特にソバ粉生地を薄く焼き延ばした「ブルターニュ風ガレット」を指す場合が多い様です。

ノルマンディー半島はブルターニュ半島よりも北側に位置します。検証は困難かと想われますが、
興味深い仮説であることに変わりありません。勿論、ミレーの『種まく人』は【新約聖書】:『ルカによる
福音書』など見られる「種を蒔く人のたとえ」にそのモチーフの在った事は事実でしょう。

現在、蕎麦は和食の代表の一角の様に扱われる場合もありますが、日本の麺類の仲間での蕎麦は
古株とは言えないかもしれません。確認できる資料では、一般的に広まったのは江戸中期以降では
ないかとされている様です。混同され易く・同時に見分け難いのは、「ソバ」の呼称が穀物名であり、
植物品種名であり、料理名でもあるからです。「そば」の古記録がドレを指すか?が始点となります。

品種としてのソバ栽培痕跡は縄文後期まで遡上できるそうです。ですが、そのソバの実やそば粉が
何時から麺類としての蕎麦になったのか?には未だ研究・検証の余地を残している様です。対して、
素麵は日本最古の麺類であり、その原型は後漢時代に始まり、日本には遣唐使らによって伝来した
とするのが定説の様です。室町初期にはほぼ現在の様な形になっていたとも言われています。

豊臣秀吉は夜食にソバをよく食べたとする話が残りますが、秀吉の夜食は蕎麦搔だった様です。
蕎麦搔からそば切りとして麺類の蕎麦が派生したのは想像に難くないのでしょうが、麺類の蕎麦が
江戸中期以降にだし汁で供される様になるには、単にソバだけでなく、醬油鰹節などの成立過程
も無視する訳にもいかず、民間食の歴史は記述以上に現物資料に乏しいのもまたネックです。

江戸期以前の戦国期〜織豊政権の頃、兵農分離は完成していませんでした。戦闘は主に収穫後
の農閑期に多く行われていたとする視点があります。それが、江戸の安定期に入り、戦乱は激減し、
結果として、軍需用の物資消耗は減り、労働力も徴用されず、国内の生産構造自体の安定傾向が
増しました。余剰作物は市場で商品となり、二期作・二毛作・民間工芸などが経済を潤しました。

前記の様に、ソバは比較的寒冷な地域でも栽培に支障はありませんでした。稲の収穫後にソバの
種をまく二毛作も非戦乱期の故です。ソバは種まきから収穫まで約二か月半:70〜80日で可能です。
内陸や関東以北の農民にとっては有難い雑穀でした。栽培上の弱点は霜に弱い点です。経験的に
降霜の時期を知る農家は例年の霜の時期から逆算してソバの種をまいたそうです。

ソバが主たる食物とならなかったのには、単位面積当たりの収穫量が少なかった点も挙げられます。
一般例での10a当たりの収量は、コメ500kg小麦300〜600kgに対し、ソバ80〜100kgとされます。

また、先に「麺類の蕎麦」…との表現を使いましたが、正確にはその字面の如く、【麺】とは麦類を、
特に小麦粉を練って面状に延ばしたものを指す文字です。「麦」+「面」=「麺」です。