[2022年5月21日]
海苔の記載は、古くは出雲国や常陸国の風土記などの奈良時代から確認できる様です。
大宝律令では「調」に当時の海苔の呼称の「紫菜」を入れています。海苔以外にも海草7種が
調とされていましたが、当時最も高価だったのが紫菜であった様です。
平安初期の宇津保物語にも「海苔」の記載が見付けられます。江戸期に入ると、最大消費地の
江戸城下でのニーズに応じて、江戸湾の各所で養殖が始められました。江戸の当時は海だった
歌川広重の『南品川鮫洲海岸』名所江戸百景:冬の部にも海苔の採取風景が描かれています。
江戸百景とのタイトルですが、江戸府内に留まらず、上記の鮫洲・浦安市猫実・北区王子・
千葉県市川市・井之頭の池・品川・江東区大島・綾瀬川・江東区妙見島・川口市…などの
江戸近郊に取材した絵も多数含まれています。
鮫洲や大森の海岸線で江戸期に海苔養殖が活発化したのには、消費の増加だけでなく、
五代将軍:綱吉の発した1685年の生類憐れみの令の影響も大きかったとされます。
1692年に浅草近辺:十六丁四方の漁業が禁止され、浅草の漁師達は江戸の南:大森近郷に
移住しました。東海道最初の宿場:品川宿と、次の川崎宿の間に位置するのが大森です。
憐みの令の取り締まりも江戸府内程には厳しくなかった様です。
江戸前海苔:或いは浅草海苔と呼ばれる海苔が盛んに大森付近で養殖される様になったのは、
上記の様に、17世紀後半の天和・貞享・元禄の頃からです。移住元の浅草の紙漉きの技術を
応用し、浅草商人が販売を手掛け、移住後も浅草神社の氏子を続けた漁師たちが栽培した
事により、今も浅草海苔の名称が残ります。
海中で海苔を生育させるための篊(ひび)の使用は、元禄〜寛永:17世紀末期と言われます。
名所江戸百景/南品川鮫洲海岸は、その養殖風景を写したものです。養殖による出荷量の
安定化と、紙漉法による板海苔化で、海苔の活用はその幅を拡大しました。
本枯れ節や濃口醤油の普及と相まって、18世紀後半には庶民の食でも海苔は活路を拡げ、
蕎麦では花巻・寿司ではかんぴょう巻きに代表される海苔巻きが始められたと言われます。
しかし、現在の様な海苔の一般化には更に約1世紀半を待たねばなりませんでした。
1949年、英国の藻類学者:キャスリーン・メアリー・ドリュー=ベーカーが海苔の糸状体を発見。
それまで不明だった海苔のライフサイクルが解明され、人工採苗よる海苔の養殖技術が
熊本県水産試験場で開発された事により、飛躍的にその生産数量が増えた様です。
また上記の1世紀半の間に、篊(ひび)にも改良が行われ、大正〜昭和初期に網篊(あみひび)が
導入されたことで、河口付近の内湾では多数の網篊で海苔が養殖される様になりました。
網篊と人口採苗で安定期をむかえた海苔養殖でしたが、昭和30年代に状況が悪化します。
1960年前後からの高度経済成長の名の下に、日本の近海は公害の影響下に置かれます。
河口・湾内を主な養殖場としていた海苔養殖は大きな変進を余儀なくされます。
それまでの網篊は浅瀬に支柱を打ち、そこに網を掛けて海苔を養殖する方式でした。ですが、
この方式では公害には対処できません。そこで考案されたのが、湾内を離れ、沖合に筏(イカダ)
の様に網篊を浮かべる:浮き流し養殖の方法です。宮城県の漁協が始めたと言われます。
支柱の代わりに、ブイ等で網篊を浮かべ、錘や錨などで固定する方式です。
近年、近海の水質改善に伴い、支柱式も復活度を高め、筏式も継続的に行われている様です。
但し、同種の海苔でも養殖方式が異なれば、採取される海苔の生育にも相違点が生じます。
筏式は長く海水に浸かっているので水分への耐性が高く、支柱式は干潮満潮の影響で1日の
中で水面から離れている時間帯がある為に耐水性が筏式より低い…特性を持つそうです。
筏式は丈夫ですが、歯切れがイマイチ。支柱式は歯切れは良いが、水分に弱い。そこで、
コンビニの太巻きやのり弁・デリバリーや出前では筏式海苔、ご飯と海苔を区別して食前に巻く
タイプのおにぎりには支柱式の海苔、蕎麦の花巻やざるそばも支柱式…などと海苔の活用や
住み分けが行われているそうです。また、海藻類のCO2吸収効果は熱帯雨林樹と比べても
十分な優位性を持つそうです。
現在、海苔養殖は韓国・中国・英国・ニュージーランド等でも行われている様です。多くの日本人
には何気ない香りの板海苔ですが、海苔食文化の無かった欧米人には当初は強い匂いとして
感じられ、忌避の一因になっていた様です。