[2022年7月17日]
Q:「大阪城」を作ったのは誰? ⇒ A:大工
…コレでは、あまりにも古典的で、テーマにもなりません。
もともと、「大阪」は明治以降の表記・呼称とされ、近世末期までは「大坂」だったそうです。
大坂城は上町台地の北端にある小高い丘陵地に建てられました。古代では国内流通の中心の
住吉津や難波津、中世には渡辺津が丘陵地周辺にはあった様です。丘陵の北辺では淀川と
旧大和川が合流していて、琵琶湖-淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点ともなっており、
摂津・和泉・紀伊と京都・山陽を結ぶ陸上交通の要衝でした。この丘陵に沿った坂に町が形成
されたことから、同地は「小坂:おさか」、後に「大坂:おおざか」と呼ばれる様になったそうです。
現在、大阪城の立つ上町台地の西麓にある生国魂神社は、大坂築城前には同地に在ったとされ、
西麓の現社地は遷座後のものです。旧社地にはその元となった太古の磐座があったとの伝説も
残っている様です。磐座:いわくら…とは、単独または複数の巨石で構成された巨石信仰の例と
され、巨岩や巨石群を神の依代として崇めるアニミズム・自然崇拝の一形式とされます。
豊臣秀吉が1583年に同地に築城を始めたのは、上記の様に交通の要地だった点、周辺を港湾・
河川・湿地に囲まれた丘陵地としての難攻の立地だった事…などが挙げられますが、もう1つの
理由として考えられているのが、同地が石山合戦の現場だった事ではないか?と言われます。
大阪城⇒大坂城⇒石山本願寺…だったわけです。織田信長の最大のライバルは、上杉でも
武田でも毛利でもなく、一向宗だった…とする説があります。一向宗とは浄土真宗、なかでも
本願寺派の拠点が石山本願寺で、石山合戦では陣頭の信長が脚に被弾した逸話も残ります。
「石山」の由来は解明されていませんが、蓮如の孫である顕誓が1568年に書いた史料によると、
「御堂ノ礎ノ石モ ネカネテ地中ニ アツメヲキタルガ如」との文章が確認されています。前出の
磐座の件と併せても、上町台地の北辺部には巨石・巨岩が散在していたことがうかがわれます。
確認困難なのですが、古代〜奈良期の難波宮も同地だったのではないか?とする説もあります。
元亀元年9月12日(1570年10月11日)〜天正8年8月2日(1580年9月10日)の約十年間に断続的に
行われた石山合戦は、正親町天皇の勅令により双方の和議が成立したことで終結しました。
宗主の顕如の退去、雑賀衆との講和を経て、顕如の長男:教如も退去しましたが、その直後に
堂舎・寺内町が炎上して灰燼に帰しました。まる一昼夜に渡って炎上し続けたと伝わっています。
結果として、城塞化された石山本願寺を武力陥落させることは信長にも不可能でした。
石山合戦当時、信長の臣下だった秀吉がこの事実を軽視したとは考え難いものがありそうです。
秀吉は難攻不落だった天然要害の地勢に、三重の堀を廻らせ、元:大坂の築城を果たします。
秀吉の死後、家康は大坂冬の陣後に堀を埋め立て、夏の陣ではオランダから最新の大砲も購入。
大坂の落城を遂げますが、徳川軍にしても当時の大坂城攻略に難儀したことがうかがわれます。
その後、二代秀忠により大坂城は再建されますが、これは元大坂城の石垣などを更に埋め立てた
その上に築城されたもので、大坂城代が置かれました。現大阪城はこの普請を基としたものです。
しかし、秀忠によって再建された大坂城は度重なる落雷や火災の被害で焼け、戊辰戦争では
当時の大坂城の大部分が焼失してしまいました。現在の我々が見ている大阪城の天守は
1931年:昭和6年11月7日に竣工したもので、秀吉時代の天守を模したと言われています。
現:大阪城〜旧:大坂城〜元:大坂城〜石山本願寺〜難波宮(?)…大阪城は重層遺構です。