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Andante (アンダンテ) 
音 羽 教 室 1:1個別指導専科

[2022年10月28日]

106号:築地鉄砲洲

名所江戸百景は浮世絵師:歌川広重が幕末の安政3年:1856年2月〜安政5年:1858年10月
にかけて制作された連作浮世絵名所絵で、江戸とその近郊が描かれた全119枚の図絵です。

江戸の町は安政2年:1855年11月の安政の江戸大地震で被害を受けており、名所江戸百景には
災害からの復興祈念の動機も指摘されています。逆説的な言い方になりますが、119枚の名所図
からは大震災被災後の混乱や破壊・火災の様子は全く見て取れません。これは安政地震直後の
瓦版や風刺画や鯰絵など…他のメディアとは完全に背反的な傾向と言われている様です。

1853年〜1859年にかけては、江戸直下だけでなく、日本列島各地で地震が頻発していました。
時代劇では殆んど語られませんが、外患の黒船来航と並行し、江戸幕府への不満・不信が積み
重なっていく…内憂の大きな要因ともなった訳です。タイトルの鉄砲洲は江戸百景では2枚ほど
描かれ、共に秋景を写した作ですが、よく見ると…鉄砲洲は「鉄(鐵)」でなく「銕」の文字です。

「銕」の文字は「鐵」の古字とされている文字ですが、「大きな鉾」を指し、大きな鉾を作れる程の
「大きな鉄」、或いは「鉄製の武器」を示す文字だったと言われます。「鉄」でなく、「銕」と書かれた
理由が推測できそうです。因みに、「鐡」は「鐵」の俗字、「鉄」は「鐵」の新字です。また、現表記の
「鉄砲洲」も名所図では「銕炮洲」で、「砲」も「炮」で、「石」偏でなく「火」偏で書かれています。

JRなどでは今でも一部で「鉃道」の様な、「金」+「失」でなく、「金」+「矢」の表記を見掛けます。
一説に「失」の字面の悪さ避け、「矢」としたと言われますが、「鉃」は本来「鏃:矢尻:やじり」です。

「砲」とは石弓、引き金による発射機能を備えた武器で、西洋のクロスボウやボウガンに似て、
石の礫などを打ち出す武器とされます。それに対して、「炮」は焼く:特に丸焼きを表す文字で、
「焙烙⇒炮烙」:「平たい土鍋」の他に、紂王が行ったとされる「火焙りの刑」としての炮烙や、
弾ける様子や炸裂する状態を示す字なので、差し詰め、火偏の「炮」は大きな破裂音でしょうか?

江戸百景には「寛永の頃、井上・稲富ら大筒の町見を試みしところなりと」と地名の由来が記され…
井上・稲富が、ここで大筒の稽古を行っていた…と記されています。井上・稲富の両家は江戸幕府
「鉄砲方」だったそうで、幕府内での鉄砲の制作・修理に当たる鉄砲の技術責任者だった様です。
その後、大筒の稽古は鎌倉の由比ガ浜に移された様ですが、江戸初期は鉄砲洲が稽古場でした。

また、名所江戸百景には他にも「銕炮洲」の地名の由来が残されており、それに拠ると、当時の
江戸湾岸の埋め立て地の一部だった同地の地形が細長い形状だったので、その名で呼ばれた…
「あるいは、この出洲の形状、その器に似たるゆゑの号なりともいへり」の説明も併記されています。
鉄砲洲に隣接する築地も、読んで文字の如く…地面を築いた:埋め立てた事…に由来しています。

この鉄砲洲は元禄の頃は、沖の埋め立て地である佃島を望む海浜地区で、仇討ち事件で有名な
播州赤穂の浅野家の上屋敷があったそうです。江戸城松の廊下吉良上野介に切り掛かった
播州浅野家三代目当主浅野内匠頭は豊臣秀吉の五奉行の一人:浅野長政の五代目の子孫です。

また、近隣の埋め立て地:築地には九州豊前の中津藩(現:大分県中津市)奥平家の中屋敷があり、
中津藩の藩医で蘭学者だった前野良沢らが解体新書の翻訳に当たりました。同藩邸は幕末には
同じく中津藩士だった福沢諭吉慶應義塾の前身に当たる蘭学塾を開く場所ともなりました。

現:明石町(旧:鉄砲洲)は明治2年:1869年から明治32年:1899年迄の間、外国人居留地でした。
これは、幕末1858年以降に締結された欧米5ヶ国等との修好通商条約により、開港場には居留地
設置の取り決めがあり、東京は開港場ではなかったのですが、 開市場には指定されていたので、
旧:鉄砲洲の約10?が居留地に充てられ、副産物的に明石町は在京ミッション系スクール発祥の
地となりました。1899年、居留地は陸奥宗光条約改正領事裁判権撤廃に従い廃止されました。

明石町発祥は開校順では、明治学院・女子学院・立教学院・青山学院・雙葉学園・立教女学院・
暁星学園・女子聖学院・関東学院。隣接の築地には上記の慶應義塾が1858年:安政5年です。
1885年:明治18年には現:成城学校(成城中学・高校)も築地に創立されています。現:明石町の
ランドマーク…聖路加国際病院もキリスト教伝道の過程で設立された治療院を前身としている
そうです。今の赤坂に1890年に移転するまでは、米国公使館も明石町でした。

上記の様な経緯で、明石町やその近辺には幕末開港以来の洋館も立ち並んでいたのですが、
1923年:大正12年の関東大震災で全て焼失しました。残念なことですが、聖路加の周囲には
現在でもそれぞれの名門・伝統校の創立を物語る各校独自の記念碑を探すことができます。