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Andante (アンダンテ) 
音 羽 教 室 1:1個別指導専科

[2023年4月1日]

115号:古典日本三大随筆

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(タメシ)なし。
世の中にある人と住家(スミカ)と、またかくの如し。
玉敷きの都の中(ウチ)に、棟(ムネ)を並べ、甍(イラカ)を争へる、たかき卑しき人のすまひは、
代々(ヨヨ)を経てつきせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀(マレ)なり。
あるいは去年(コゾ)焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。
(後略)

昨年あたりから、脱コロナ的動向でしょうか?23区内でも建て替えが目立つ様な気がします。
中受女子御三家のJG雙葉近くの旧日テレ本社跡地の超高層ビルプランとか、桜蔭西隣の
マンション高層化計画とか…土地とその上部空間の有効利用は大切なテーマです。願わくは、
その活用が次の、より若い世代へ眼を向けたものであって欲しいものです。

『方丈記』(ほうじょうき/はうぢやうき)は鎌倉初期:鴨長明の随筆で、『徒然草』兼好法師
『枕草子』清少納言と並ぶ古典日本三大随筆の1つですが、他二作に比べると、とにかく
短い…四百字詰めの原稿用紙で20枚前後、ざっと源氏物語の1/100くらいの様です。

晩年の長明は京の郊外・日野(日野岳:京都市伏見区日野山)に一丈四方ばかりの、方丈
小庵を結び隠棲、世情を観察した記録であることから、自ら「方丈記」と名付けた…との定説
ですが、本来は誰かに見せる為に書かれたものではなかった…とする指摘もあります。

この短編の前半には平安末期から鎌倉草創期にかけての出来事が幾つも記されています。
安元3年:1177年の京都の大火・治承4年:1180年に都で発生した竜巻・直後の福原京遷都
養和年間:1181年〜1182年の飢饉・元暦2年:1185年に京を襲った文治地震など、近接体験
に基く記述が多く、歴史的資料としても、紀行文的にも、方丈記の前半部は異色の存在です。
当時の移動手段は牛か馬…長明は専ら徒歩だった様ですから、それも驚きの健脚です。

兼好徒然草は鎌倉の末期も末期:1330年頃(1349年説も有力)の執筆と言われます。兼好
の出自は京都市左京区吉田神楽岡町の吉田神社とされます。父が同社の神職だった様です。
長明下賀茂神社の禰宜の次男で、兼好・長明共に従五位まで登っています。因みに貫之
従五位:追贈従二位なので、官位では貫之〜Win!ですが、昇殿ラインが五位でしたので、
今昔物語龍之介「芋粥」の五位を思い出して下さい。貴族の末端付近…ですかね?

摂関家と較べられては御三人共に不本意かもしれませんが、藤原道長の長男:田鶴は12歳で
内大臣藤原公季の加冠で元服し、頼通と名乗り、五位下に叙せられています。蔭位ですね。
彰子は道長の長女で、頼通と同母姉弟の間柄です。同母妹にも三条帝中宮:妍子・後一条帝
中宮:威子・後朱雀帝妃:嬉子…とセレブな家族構成です。盤石の外戚体制と言えそうです。

彰子の局である藤壺では、その女房に源氏物語の紫式部・王朝歌人として著名な和泉式部
『栄花物語』正編の作者と言われる赤染衛門・続編の作者と伝わる出羽弁・更には伊勢大輔
など…、王朝文学を代表する錚々たる文芸人が名と座を連ねていたそうです。

彰子に先立って、一条帝に入内していたのが定子です。定子の父は道長の同母兄:道隆で、
その定子の局の女房だったのが清少納言でした。定子の入内から彰子の入内までは十年弱
の時間差があり、式部と少納言に面識・交際があったのか?は微妙なところかもしれません。

しかし、源氏物語の第二帖:帚木雨夜の品定めに見られる様に、式部の少納言評は高くない
…と言うより酷評に近いものが散見され、中世伝承では才女の不幸の代表格化していきます。
いわゆる清女伝説と呼ばれる伝承です。清少納言登場の約百年前にも高名な才女がいました。
小野小町です。彼女の没後の卒都婆小町的な流れと清女伝では印象が重複します。落魄譚
と言ってしまえばソレまでですが、清少納言の復権には江戸の随筆:玉勝間を待つ事となります。