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Andante (アンダンテ) 
音 羽 教 室 1:1個別指導専科

[2023年4月23日]

117号:五街道と四天王

五街道東海道中山道日光道中奥州道中甲州道中の5つ。起点は全てお江戸日本橋
一般的には北から順に、日本橋〜福島:白川までが奥州道中、途中の宇都宮から分岐の様に
見えるのが日光道中ですが、日本橋〜宇都宮は共用でした。現在では宇都宮までが日光街道、
宇都宮以北が奥州街道と呼ばれているらしく、日光街道の終点は東照宮の神橋の様です。

中山道は山路です。日本橋から現在の東大の赤門や正門の前を通り、巣鴨・板橋を抜けて、
高崎・軽井沢・下諏訪・木曽・関ケ原から、伊吹山地の南端と鈴鹿山脈の北端の間:不破の道
通って琵琶湖東岸に至り、滋賀:草津で東海道と一緒になり、次が大津で、終点:京の三条大橋
に到着です。家康の江戸入府以降、些か影の薄い中山道ですが、律令体制下では寧ろ東国側
への主要往還でした。古代の東海道は鎌倉から横浜に抜けるのではなく、鎌倉から三浦半島に
廻り、船で木更津、市原から北上して常陸:茨城に抜けるものでした。江戸は遠目に素通りです。

甲州道中は甲州:甲斐:山梨が政治的にも財政的にも江戸幕府にとって重要な地域でしたので、
整備が進みました。日本橋から、中山道の下諏訪までのルートです。新宿・高井戸・小仏・笹子
を経て甲府に至る、現:甲州街道のベースです。初期の甲州道中最初の宿場は高井戸だった
そうです。しかし、中山道の板橋・日光/奥州の千住・東海道の品川に比して、日本橋-高井戸は
距離があり、日本橋を出て日没までに到着できない人も多く、そこで現在の新宿御苑北辺付近に
新たに宿場を設けました:内藤新宿です。現在の新宿の由来とされています。

東海道は日本橋から品川・川崎・保土ヶ谷・戸塚・小田原・箱根・三島を経て、大井川を渡河し、
愛知県の熱田神宮:宮宿に至ります。小田原から箱根が四里・箱根から三島が四里八丁でした
ので箱根八里などと言われ、大井川を人力で渡ったことから「越すに越されぬ」と唄われました。
熱田:宮宿からは三重の桑名までの海路です。東海道・五街道中唯一の船路でした。宮宿〜
桑名宿までの海路が約七里弱と言われ、七里の渡しと呼ばれました。

桑名で上陸、四日市から鈴鹿山脈を越え、甲賀から琵琶湖の南に出て草津で中山道と交わり、
大津→京:三条大橋に至ります。七里の渡しは江戸後期には熱田-桑名間の海岸線での埋め
立てが進み、熱田:宮宿から四日市に至る海上ルートも生まれました。

宮宿は熱田神宮の門前で、大きな港町でした。桑名も木曽川揖斐川の河口西岸の港でした。
今は城址だけが残りますが、桑名城は家康四天王:本田平八郎忠勝の築城です。七里の渡しは
所要4時間で、脇道の佐屋路では約1日でしたが、佐屋路も最後は木曽川・揖斐川を越すのに
渡し船を利用しました。濃尾平野には木曽川・揖斐川以外にも河川が多く、架橋技術の未発達な
江戸初期には交通・物流に不便をきたしました。ですが、戦略的になら河川は重要防御線です。

桑名城は東海道の関西への入り口で、海運と木曾川・揖斐川の水運を押さえる要害の地でした。
同様に、大垣から関ケ原を経て琵琶湖東岸に至る中山道:古代からの要地を与えられた武将が
四天王:井伊直政で、国宝五城の一つ:彦根城です。しかし、直政は設計段階の1602年に没して
います。関ヶ原合戦の戦傷が完治せぬまま東奔西走したから…とも聞きます。譜代の有力大名が
様々な事情から転封・移封を繰り返す中で、彦根藩は唯一:井伊家が江戸の初期〜終末期まで
を治め、石高も譜代では最大、江戸城内での席次でも井伊家は破格の扱いを受けました。

北関東には館林に四天王:榊原康政関東総奉行兼勘定方支配に充て、井伊直政も関ケ原の
前は中山道の高崎でした。榊原康政は、その功績により加増移封を打診された際にも、江戸に
近い館林を離れなかったとの逸話が伝わります。館林は西に中山道・東に日光/奥州道中・南に
利根川を観望する関東北部の要所です。

四天王筆頭酒井忠次は1590年の家康の江戸入府時には隠居(1588年〜)の身で、関ケ原の
合戦前の1596年に他界しています。酒井忠次隠居の理由に関しては眼病説が残されています。
晩年は秀吉からの処遇を得て、京で過ごした様です。