[2023年5月3日]
明治天皇が発した一世一元の詔(明治元年9月8日:1868年10月23日)以降、大正・昭和・平成に
見られる様に「在位天皇一代に対し、元号も一つ」と定まりました。
元号の始まりは中国大陸です。現在とは異なり、中華王朝で過去に用いられた元号が日本でも
その故事などに則って採用された事例もあります。鎌倉幕府が討たれ、天皇親政を掲げた際の
元号は有名な建武ですが、これの建武の元号採択は前漢と後漢の間の新に典拠があります。
前漢(西漢)と後漢(東漢)の間:西暦8年〜23年の僅かに約15年の新の王莽の言とされるのが…
夫鹽食肴之将 酒百薬之長 嘉會之好 鐵田農之本 『漢書・食貨志下』
夫れ塩(鹽)は食肴の将 酒は百薬の長 嘉会の好 鉄は田農の本
ですが、新は復古的な理想政治体制を志向した頭でっかちな政府だったらしく、後漢の光武帝に
より短命に終わります。この新の簒奪から漢王朝が復権した際の元号が、謂わば本家:建武です。
音としては和の「けんむ」に対して、漢の「ケンブ」とされている様です。建武の元号は後漢の後も
西晋・東晋・後趙・西燕・南朝斉・元?などで:6回+1回:日本で、全8回の例が確認できます。
本邦建武も漢→後漢の復権に、天皇親政の復活、そのあるべき姿を重ねたのかもしれません。
さて、ここでQuestion。日本最初の元号と言えば…?
正解…大化(645年〜650年)です。
肆予大化誘我友邦君 『書経』
肆に 予 大きに 我が友邦の 君を 化誘す
(ゆゑに われ おおきに わがゆうほうの くんを かかづす )
「大いなる徳によって人心を良い方向に導く」こと、それが大化の由来と言われている様です。
では、大化の次の元号は何でしょう?……それは、白雉です。と、ココまでは普通なのですが、
珍奇はこの後です。大化で6年、白雉で5年のその後、約32年間の元号無しの期間が続きます。
約32年後…天武天皇の最晩年に朱鳥と言う元号が付けられますが、その半年後に天武天皇が
崩御すると、また約15年間の元号無し期間があり、耳慣れた701年の大宝を待つこととなります。
大宝以降、元号が途切れることは無くなるのですが、前出の建武の前に大覚寺統と持明院統
の二統に分かれた、所謂…両統迭立の時期に二つの元号:元弘 & 正慶…の時期がありました。
建武の新政後は南北朝突入で、元号は南朝側と北朝側とで、また二つに分立してしまいます。
三代足利義満の1392年に南北朝は収束し、元号も北朝方(明徳3年:1392年)に統一されます。
現在の正規認定の元号の流れは、元弘(大覚寺統)→建武→北朝方→応永…となっています。
戦国末期〜安土桃山〜江戸初期を観ると、元号は…弘治・永禄・元亀・天正・文禄・慶長・元和
…と続きます。弘治・永禄・元亀と天正の途中までが正親町天皇です。正親町はオオギマチと読み、
天正・文禄が後陽成天皇、慶長と元和は後水尾天皇で、次代:寛永の明正天皇は女帝でした。
一代の天皇に複数の元号を用いた事もあれば、践祚に元号の更新が伴わない例もありました。
元号が変わることを改元と呼びます。改元の理由は大別して以下の4種類とされている様です。
?;君主の代替わり ・ ?;吉事・瑞祥の発生 ・ ?;凶事の鎮静化祈願 ・ ?;革年改元
明治からは?となっています。?の例として、大化→白雉は…白い雉が献上された祥瑞による
改元とされていますが、蘇我倉山田石川麻呂誣告事件は白雉改元の前年で、関連が匂います。
大宝の後に慶雲・和銅・霊亀・養老・神亀・天平と続く元号ですが、大宝〜神亀までは吉事・瑞祥
に拠る改元との理由付けがなされている様ですので、名目上では?に該当する例でしょう。
1596年9月1日:文禄5年閏7月9日に愛媛を震源とするM7.0推定の地震が起こります。
1596年9月4日:文禄5年閏7月12日に大分を震源とするM7.0推定の地震が起こります。
1596年9月5日:文禄5年閏7月13日に京都を震源とするM7.5推定の地震が起こります。
1596年12月16日:文禄5年10月27日、上記の天災等を受け、文禄→慶長の改元がなされます。
おそらくは中央構造線に起因する一連の断層型地震なのでしょう。これらを慶長大地震とか、
或いは個別に、慶長伊予地震・慶長豊後地震・慶長伏見地震と呼びます。しかし…天災勃発→
改元→慶長で、実際に地震が発生した時点の元号は文禄でした。文禄→慶長は?の様です。
革令:甲子の年・革運:戊辰の年・革命:辛酉の年を合わせて、三革と呼ばれます。この三革に
当たる年は暦道では変事が多いとされ、改元が繰り返されてきました。「革」はあらたまるの意で、
「改」のあらたまると重ねて改革の熟語となります。革命なら天命があらたまる事を指す訳です。
迷信と言えば、ソレまでですが…?革年改元は経験的な予防策だったのかもしれません。