[2023年5月18日]
東京メトロ:千代田線の千駄木駅から西に団子坂を上って暫く歩くと、右手に駒込学園の校門が
見えてきます。校門の先に小さめの十字路があります。「小さめ」と言うのは、主道に交わる道が
右から左への一方通行で、その道幅の為です。
駒込学園の南西角に位置する、その小さめの交差点を左に折れ、日本医大側に5分少々進んだ
右側に夏目漱石旧居跡:猫の家があります。塀の上と地面に一匹づつの猫が出迎えてくれます。
一匹は塀の上を歩き、もう一匹は地面にしゃがんでいる猫の像で、よく被写体になっています。
同地で漱石が住んだ借家は、漱石以前に森鴎外も1年ほど借りていた時期があり、建物自体は
愛知県の博物館明治村に移築されているそうです。この家は英国留学後に借りたもので、作家:
漱石のデビューの地でもあります。もとは野良だった子猫が、つまみ出される度に帰ってくるので
飼うことになったらしく、この子猫がデビュー作のモチーフだったことは想像に難くありません。
小泉八雲の後任として、帝大で英語講師を務めた漱石でしたが、前任と比較されたり、生徒が
華厳の滝に投身自殺したりで、精神面での衰弱を強いられました。帰国翌年の1904(明治37)年
の暮れに高浜虚子に治療の一助として執筆を促されたのを契機に、翌年の雑誌「ホトトギス」で
発表されたのが『吾輩は猫である』で、当初は1回読切の予定が、好評を得て続編もとなりました。
高浜虚子は河東碧梧桐と伊予:松山の同級生で、学生としても俳人としても先輩の正岡子規に
兄事し創作を行い、その子規と漱石は東大予備門同窓の仲でした。漱石は漢詩をよくしたそう
ですが、これは子規をかなり意識していたらしい…との話が残ります。子規・虚子・碧梧桐…共に
現在の愛媛県立松山東高校の出身で、日露戦争で名を馳せた秋山兄弟も同門でした。
旧制の松山中学(松山東高等学校の前身)は、帝大の先輩であり友人だった独語学の菅虎雄の
仲介で、漱石が英語嘱託として1895年(明治28年)4月に赴任した先でもあります。翌年の4月に
熊本第五高等学校へ転任するまでの1年間の体験を下敷きに、後年の1906年に書かれたのが
『坊ちゃん』です。漱石は原本を約10日間程で仕上げたと言われ、今の私達が目にする本文には
発表場となった雑誌『ホトトギズ』の当時の編集者だった高浜虚子の手が加わっている模様です。
方言などでも松山:地元出身の虚子の修正が及んでいるとの報告もあります。
漱石デビューのモチーフとなった子猫は、その後も1908年の昇天までを夏目家で過ごし、漱石の
庭の一隅に葬られたと言います。年譜を追うと、1903年に英国から帰国し上記の借家で子猫と
出会い、1906年まで同地に住み、文京区西片への転居を経て、1907年9月には早稲田南町の
借家に移っていますので、件の猫もこの借家の敷地に眠っているはずです。
早稲田南町の借家は漱石の生家に近く、終の棲家となりましたが、太平洋戦争の空襲で焼失し、
今は記念館が建てられています。漱石の猫は、文学史上では枕草子第七段の「命婦の御許」と
並ぶ、有名な猫となりましたが、固有の呼称としての名前はついに付けられなかった様です。
虚子は漱石の『吾輩は猫である』の原稿に、タイトルのネーミングに関しての逸話を残しました。
モチーフの猫とは対照的な感のエピソードで、初め漱石は『猫伝』と題していたそうなのですが、
タイトル改変を助言したのが虚子だった様です。虚子は漱石の文壇へのデビューの契機を拓き、
タイトルにも続作にも影響を与え、文豪:夏目漱石のプロデューサー的な生みの親となりました。
文京区の夏目漱石旧居跡:猫の家は、今は日本医大の一部となっていますが、1971年5月に
「夏目漱石旧居跡」の碑が建てられました。碑の題字は川端康成のものです。