[2023年5月20日]
東京メトロ:東西線の2番出口から地上に出ると、右は弁天町の交差点を抜け神楽坂に至ります。
左に進むと、正面に商売繁盛の穴八幡宮の森が目に入り、道なりに進めば先は高田馬場駅です。
2番出口と3番出口が面する交差点は少し歪み気味の十字路を形作っていて、南に延びる細目の
緩い上り坂道は「夏目坂」と呼ばれ、「夏目坂通り」の表示も見えます。勿論、これは漱石の苗字
と同じ「夏目」で、単なる偶然の一致ではありません。
夏目坂の入り口には、坂に向かって左手にリカーショップ:小倉屋さんが目立ちます。嘘か真か?
赤穂浪士:四十七士で有名な堀部安兵衛が仇討ちの助っ人として高田馬場へ向かうその手前で
桝酒を呷ったとされるのが、この小倉屋:KOKURAYAさんと言われています。安兵衛は高田馬場の
仇討ちで一躍名を馳せ、堀部弥兵衛に乞われて婿に入りました。助っ人時は未だ中山姓でした。
小倉屋創業は1678年(延宝6年)とされ、二代目の頃(1694年:元禄7年)に安兵衛が助っ人の途上
で立ち寄った様です。耳にした所では、安兵衛の使った枡は今でも小倉屋さんがお持ちだとか?
高田馬場の仇討ちとは言いますが、場所は現在の高田馬場駅の付近ではなく、おそらく前出の
穴八幡様脇の坂の上の辺りの様です。
小倉屋さんのすぐ隣脇に「夏目漱石誕生の地」の記念碑が建っています。現住所で小倉屋さんは
新宿区馬場下町、脇隣の記念碑の辺りからは新宿区喜久井町と、町名が分かれているのですが、
この喜久井町が漱石の生まれた家があった町名です。
この町が生誕地だったことは、漱石自身が随筆『硝子戸の中』(1915年)の第23章で触れています。
それによると、「喜久井」の町名も「夏目坂」の通りの名も、名付けたのは漱石の父:夏目直克氏
と述べられており、それは明治2年の町の統合に際し、当時の名主で区長でもあった父の直克が
牛込喜久井町と命名した云々の記述が確認できます。
「私の家の定紋(ジョウモン)が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町とした」
…井桁(いげた)菊とは格子状に組んだ縦横各二本の棒の内の四角いスペースに連弁菊を配した
家紋で、1871年に皇族以外の菊花紋の使用が禁止され、夏目家も別の家紋に代えたとの事。
漱石が件の猫と一緒に文京区の借家から早稲田南町に転居したのが1907年。早稲田南町では
約9年を過ごし、この借家が終の棲家となります。文京区では『吾輩は猫である』・『坊ちゃん』など、
早稲田では『三四郎』・『それから』・『こゝろ』などを執筆しました。
漱石の生家碑から、漱石の借家跡とされる漱石山房記念館までは直線距離で約500m。前出の
喜久井町と早稲田南町は隣接する地区です。漱石の墓所は、東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷
霊園です。1916年(大正5年)12月9日、体内出血により早稲田南町の自宅にて逝去。49年10ゖ月
の生涯でした。偶然ですが、新聞紙上から漢詩の投稿欄が消えたのはその翌年:大正6年です。
『坊ちゃん』の起点となった伊予:松山の旧制:松山中学への赴任は菅虎雄の口添えでしたが、
漱石墓碑銘もこの帝大の先輩で親友の菅虎雄の手になるものです。菅氏は独語学者・書家で、
芥川龍之介の処女刊行本『羅生門』の題字の揮毫をしたことでも有名です。龍之介が漱石門下
に加わったとされるのは1915年(大正4年)の12月、漱石他界の1年前でした。
この時期に、龍之介の代表作の一部で、説話に取材した『羅生門』(1915年:大正4年)、翌年の
1916年(大正5年)には『鼻』・『芋粥』を発表、『鼻』は漱石に絶賛されたそうです。早稲田南町の
漱石の旧宅は漱石山房と呼ばれ、多くの文人が集いました。旧:漱石山房は1945年(昭和20年)
の空襲で焼失しています。1923年(大正12年)1月に発表された『漱石山房の冬』は漱石について
の回想を綴った龍之介の短編で、他に『漱石山房の秋』や、漱石の『葬儀記』もあります。
漱石と龍之介の古往今来…早稲田は二つの巨大な才能の邂逅の場となりました。