[2023年12月27日]
来年はオリンピックイヤーです。100年:一世紀振りにパリで開催されます。2024-100=1924年。
第一次と第二次の世界大戦に挟まれた五輪大会でした。『炎のランナー』(Chariots of Fire)は
第54回(1982年)アカデミー賞作品賞受賞作品で、その映画の舞台が前回のパリ五輪でした。
1924年は大正13年、翌年の4月22日には治安維持法が公布される様な、大正デモクラシーから
軍国日本への曲がり角でもありました。映画『炎のランナー』でも、第一次大戦を否定的に観る
発言に気付かされます。蛇足ですが、1900年・1924年に次ぎ、パリ五輪は今度が3回目です。
さて、タイトルとの関連で言うと、五輪と共に4年に一度廻ってくるのが閏年:leap year です。
閏(うるう/じゅん)は、暦上での1年の月数や日数が普段の年(平年:common year)より多いこと。
或いは、1日の秒数が普段の日よりも多いことを指します。閏年・閏月・閏日・閏秒などです。
旧暦の場合、平均の月々の日数が29.5日だったそうです。29.5日×12ヶ月=354日となりますが、
1年は365日なので、365-354=11日の差が出ます。11日×3年=33日≒一ヶ月のズレが生ずる
計算です。この為に設けられていたとされるのが閏月です。日本では明治5年までが旧暦で、
翌年から西洋に合わせた暦に改めました。閏月の最後は明治3年10月の翌月が閏10月でした。
改暦を急いだ背景には貿易上の不便さがありました。暦法が西洋諸国と異なることから、輸出入
や締約日の確認などに大きなストレスが発生していた様です。他にも政治的…と言うより、財政
と言うべきか、明治中期までの日本政府は慢性的予算不足でした。その為、予算不足をカバー
するのに、会計年度を短縮する様な手法が選択されたこともありました。現行の4月の新年度も、
元々は西洋同様9月:新年度だったものを短縮した為に、意図的にズラされた結果と言われます。
【明治5年→明治6年】の改暦にも財政的な裏面があった様です。当時の改暦状況を確認すると、
明治5年12月1日→12月2日➡明治6年1月1日…明治5年の12月は2日だけでした。この為、明治
政府は12月分の役人の給与を支払わずに済ませました。この事は旧暦の閏月にも該当します。
明治3年の次の閏月は、多分3年後の明治6年。官吏の給与が1年に12回なのか?13回なのか?
は維新政府にとっては切実だった様です。明治の初期財政事情はとにかく逼迫していました。
表裏の事情から明治6年1月1日から改暦が実施されました。ところが、困ったのが皇室行事です。
また、祭礼なども同様です。ご縁日と言う程に、祝祭日は「日にち」に紐付いた存在です。元旦に
しても、皇紀元年1月1日に初代の神武天皇が即位した…とされ、1月1日は祝日でした。しかし、
改暦に伴い明治6年には1月29日とされました。これは旧暦の明治6年の1月1日に当たる日です。
その後は現在の2月11日が皇紀元年1月1日に当たるとの公的な計算結果が出され、現在でも
建国記念の日としてカレンダーでは祝日となっています。この計算は、当時の文部省天文局が
算出し、暦学者の塚本明毅が審査して決定した…とされていますが、その実際の計算方法は
不詳です。こんな具合で、明治7年から2月11日が日本の始まりの日となりました。建国記念日…
戦前は皇紀元年に神武天皇が即位した日として、紀元節と呼ばれる祝日でした。
明治の文部省天文局の計算をベースに考えると、新旧の暦にはギャップが発生している訳です。
最短で28日:旧暦1ヶ月分、長くて+11日分≒30〜40日程度のズレです。例えば、如月:旧2月。
願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃
有名な西行の歌です。西行は無類の桜好きとしても知られています。ところが、2月の望月:15日
の頃に咲いているのは梅の花ですから、何かおかしい?訳ですが、2/15に30〜40日を加えると、
今の暦の3月中旬から下旬となり、桜が咲き誇っていても、ソレは当然・当たり前…となります。
徳川家康の干支にしても、関係があるかも?しれません。『どうする…』でも度々話題に上って
いました。「ワシは寅の年、寅の日、寅の刻に生まれた虎(武神)の化身じゃ…」的な、アレです。
家康の生誕は、公称:天文11年12月26日、これを現行暦にすると1543年1月31日になります。
旧暦の天文11年の殆どが西暦の1542年に含まれますが、12月は西暦の1543年となります。
1542年は「壬寅:ジンイン:みずのえとら」ですが、翌1543年は「癸卯:キボウ:みずのとうさぎ」。
案外、名実共に卯年の生誕だったのかもしれません。因みに、白兎と素菟(兎)は別ものです。