[2025年8月6日]
三国志演義が史書:三国志をベースに脚色された物語である様に、西遊記は大唐西域記を
もとにした伝奇小説です。『水滸伝』『西遊記』『三国志演義』『金瓶梅』を総称し、明代の中国で
書かれた伝奇時代小説の大作:「四大奇書」と呼ばれます。
本家の三国志は、三国時代について書かれた歴史書です。後漢の混乱期から西晋によって
魏呉蜀の三国が統一されるまでの時代を扱った、二十四史の一つで、 卑弥呼や壹與の記載で
魏志倭人伝も三国志の一部です。が、三国志の中に倭人伝という独立した部分(列伝)がある
訳ではなく、三国志の中の魏書(志)の東夷伝の倭人に関しての記述部分(条)を指す様です。
さて、西遊記の基になったとされる大唐西域記ですが、唐代の僧:玄奘が記したインドへの見聞録
であり地誌とも言われるもので、成立は646年との説が一般的な様です。現実の玄奘の旅の期間は
629年〜645年とされています。隋の滅亡:唐の成立が618年、大化の改新での乙巳の変が645年。
神通力を持った三神仙(仙人):孫悟空・猪八戒・沙悟浄と言うと荒唐無稽に感じますが、実際には
日本で言えば飛鳥時代に相当する時期に実在した僧侶が玄奘(602年生〜664年没)でした。
天竺への取教・求法の旅からの帰国後、玄奘は法相宗の開祖となりました。年代を考えれば、
遣唐使として入唐したのなら、タイミングによっては対面する事も可能な人物です。
ところで、比叡山延暦寺…と言えば天台宗、高野山金剛峰寺…と言えば真言宗。
では、奈良の大仏でも知られる東大寺は何宗?でしょうか。
答えは…華厳宗。その本山が東大寺です。華厳宗は南都六宗のひとつです。
三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗を総称して南都六宗とか奈良仏教などと呼ばれます。
東大寺は上記の通り華厳宗、西大寺や唐招提寺は律宗、興福寺や薬師寺は法相宗…となります。
しかし、南都六宗や奈良仏教などの総称は、平安京を中心に栄えた平安二宗(天台宗・真言宗)に
対しての呼称で、飛鳥〜奈良の当時は寺院ごとに特定宗派を奉じる寺院は少なかったそうです。
南都六宗自体は、平安期以降の各宗派とは異なり、相互に教義を学び合う学派の役割や色合いが強く、
東大寺を中心に興隆し、教学を探究し合う様な連携的な関係と聞いています。六宗内での人的・知的な
交流も日常的に行われていた様で、最澄が空海に頭を下げた事に比べると、開明・開放的な感じです。
聖武天皇は天平17年(745年)大仏造立を現在の東大寺の地で行う事とし、この大事業の推進に際し
幅広い民衆の支持を得る為、それまでの弾圧から一変翻し、行基を大僧正として迎え協力を得たわけ…
ですが、この行基の師と言われるのが道昭と義淵です。国宝『義淵僧正坐像』で知られる義淵は多くの
弟子を持ち、行基のほかにも玄?・良弁など史上に名を留める僧を輩出し、一説には道鏡の師とも…。
もう1人の師と伝わる道昭は653年に遣唐使の一員として定恵や粟田真人らと共に入唐していますが、
道昭は玄奘三蔵に師事し法相宗を学んだそうです。玄奘はこの異国からの留学僧を大切にし、同室で
寝食を共にしながら指導を行ったと言われています。660年に帰朝した道昭は、日本法相教学の初伝と
なった訳ですが、660年当時は天武天皇・天智天皇の母である斉明天皇の代で、663年が白村江です。
現在、日本には玄奘の遺骨と言われるものが存在しているそうですが、これは玄奘と道昭の師弟関係
とは無縁の様です。日中戦争(支那事変)に際して旧日本軍が国内に持ち込んだ遺骨の一部の様です。
玄奘や釈尊でなくとも、誰かの舎利を強引に他所へ移すなど本来あってはならない事でしょう。
道昭が晩年の全国遊行で各地の土木事業を行った事や、義淵による五ヶ龍寺の創建などは、そのまま
弟子の行基に継承されている様にも想われます。また私見に過ぎませんが、遣唐使で入唐した道昭に、
師:玄奘はかつての自身を、天竺への取教の姿を、重ねていた…様にも感じられてしまいます。
彼らの事跡や姿勢を追っていると、人のつながりや意志の継承には国や地域・人種や血縁などは
あまり関係が無い様に思われます。彼らを衝き動かしたものは果たして何だったのでしょう。
或いは、道昭の遊行の旅もまた、師:玄奘の求法の背から学んだのかもしれません。