[2025年8月14日]
奥羽山脈・三陸海岸・房総半島・濃尾平野・紀淡海峡・防予諸島・豊予海峡…等々。
これらは今の県名ではなく、旧国名由来の地名です。旧国名由来の名称は他にも
…鉄道の路線名などは多数例です:常磐線・上越線・紀勢本線・予讃線・芸備線…。
出羽(羽前+羽後)と陸奥で奥羽。上総下総と安房で房総。尾張と美濃で濃尾。
淡路と紀伊で紀淡。周防と伊予で防予。豊後と伊予で豊予。常陸と磐城で常磐。
上野と越後で上越。紀伊と伊勢で紀勢。伊予と讃岐で予讃。安芸と備中で芸備。
例えば、上越線や上信越高原の『上』が指している地名は『上野:コウズケ』⇒今の
群馬県付近です。この上野に対して、東側の栃木県⇒旧国名『下野:シモツケ』です。
この種の分け方には、上下の他にも、前後・遠近などがありますが、そこには
或る傾向が確認できる様です。以下は日本地図を開くと解り易いかもしれません。
北陸では、今の福井県東部は越前、富山県は越中、新潟県は越後です。
【湖】関連では、滋賀県:近江の琵琶湖と、浜名湖で遠江:静岡県西部。
北陸・中部・関東にかけては西側:【上・前・近】で、東側が【下・後・遠】です。
東北になると、山形と秋田が『羽前・羽後』、宮城と岩手と青森で『陸前・陸中・陸奥』
の「三陸」の様に…南側が【前】で、北側が【後・奥】となります。
この中心点は畿内です。畿内から見て近い方が上・前・近で、遠方は下・後・遠です。
畿内は山城・大和・河内・摂津・和泉の五畿を起点としているので、以西は反転します。
山陽道では、岡山県の東部が備前/西部が備中で、その西隣の広島県の東部が備後
となり、北陸・中部・関東の国名とは真逆の位置関係になります。
福岡県の東部が豊前で、大分県は豊後です。これは北が前で南が後の位置です。
福岡県の西部は筑前で、有明海側の福岡県南部が筑後…やはり北:前/南:後。
北側の長崎が肥前で、南側の熊本は肥後です。九州は全て東北とは反対です。
例外に見えるのは千葉県です。【中部が上総/北部が下総】のパターンです。
東海道は箱根・足柄を越えても、江戸期前の東京の沿岸地区は広い湿地帯でした。
そこで鎌倉以東は東京湾岸の渡河や湿地を避け、三浦半島から富津に渡るなど、
静岡や神奈川から船で上総(千葉県中央部)へ入り、そこから下総や常陸(茨城)へ
北上するのが東海道ルートでした。倭建命の東征も横須賀⇒木更津は海路です。
更科日記は上総〜京都への帰路が語り始めです。菅原家は陸路で市原市付近から
下総⇒武蔵⇒相模へ上りますが、港区辺りは『蘆荻のみ高く生ひて』の描写です。
「武蔵の国は趣のある所でもなく、浜も白砂でなく、泥の様で…」など散々な描写です。
武蔵野は けふはな焼きそ 若草の つまもこもれり 我もこもれり
この歌は伊勢物語十二段にとられているのですが、更級日記筆者:菅原孝標女の想像と、
現に通過したの武蔵の国にギャップがあり過ぎたのでしょう。伊勢物語:九段の東下りには
武蔵の国と下総の国との中に いと大きなる河あり それをすみだ河と いふ
つまり、隅田川以東の東部地域は江戸期以前には武蔵(江戸:東京)でなく、下総(千葉)
だった訳です。これは隅田川に架かる両国橋の名の由来でもあります。国境の橋です。
1590年の家康江戸入府後、隅田川に最初に架橋されたのは千住大橋:1594年です。
次いで1660年前後(1659年説と1661年説あり)に渡されたとされるのが両国橋です。
江戸は1657年3月に明暦の大火:振袖火事に遭い、逃げ場の無い多くの江戸町民が
火勢に呑まれたことを契機として、隅田川架橋を行う様になったと言われています。
武蔵下総の境が変更され、隅田川東岸が編入されるのは1686年から…綱吉の頃です。
また、川崎や横浜の過半(北東側)が東京⇒神奈川となるのは明治の廃藩置県後です。
多摩川南岸の川崎側に武蔵○○の地名が見られるのはこの辺りの経緯からの様です。