[2025年9月11日]
国宝五城で最後の築城になるのが唯一江戸時代に築かれた彦根城です。この城の価値の一端
は近隣各所の移築遺構の多さと言われます。琵琶湖畔の大津城・小谷城・佐和山城・観音寺城・
長浜城…など等、時間とコストの削減は結果的に文化的な価値の遺構保存にも寄与ました。
佐和山城は井伊直政:徳川四天王が関ケ原の武功で得た城です。名の通りに山城だったらしく、
佐和山から約2km西側の丘に新たに彦根城が築かれます。佐和山の前城主は石田三成でした。
単純比較はできませんが、データとして佐和山は標高232m、彦根城の金亀山は50m…の様です。
三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城と謳われた名城…だった様です。
更に彦根城の南西20km弱には信長の居城:安土城。また、彦根城から10km強:ほぼ真北の湖岸
には秀吉の築いた長浜城。その長浜から更に北方約10kmの尾根筋に小谷城。この城は浅井三代
の居城で、信長の妹:お市の方の嫁ぎ先です。
これらの琵琶湖東岸から西岸に渡った近江坂本は延暦寺の門前町および日吉大社の鳥居前町
として古くから栄えたのですが、この近江坂本の琵琶湖畔には内堀と湖に囲まれた水城:坂本城。
フロイスの『日本史』では安土城に次ぐ天下第二の城とされています。明智光秀が築いた平城です。
秀吉の長浜築城は小谷落城の後ですが、二つの城跡の間を流れる姉川が暗示的です。
その姉川の河口から約13kmほど湖畔を北上すると、琵琶湖の北端近くの賤ヶ岳に至ります。
柴田勝家と羽柴秀吉の間で賤ヶ岳の合戦が行われた処です。賤ヶ岳の七本槍も有名です。
お市の方の長女として小谷で落城に遭い、母の再婚相手の柴田勝家が賤ヶ岳で敗れた為、
北ノ庄城(⇒福井城)で二度目の落城を経験し、最後は大坂も落城…淀の方(茶々)です。
秀吉の逝去から大坂落城への流れで、決定打となったのが1600年9月の関ヶ原の合戦です。
琵琶湖では東岸に沿う形で、北から伊吹山地、南から鈴鹿山脈や養老山地が延びています。
この山地の間を東西に結ぶルートは古代から交通の要所で、不破の道と呼ばれていました。
琵琶湖側からその隘路を東へ抜けた盆地状の地形が関ヶ原です。関ケ原の名は壬申の乱の翌年:
673年に不破の道に置かれた不破関からで、同関は鈴鹿関・愛発関と並ぶ古代の三関の一つです。
その要衝の不破の道を押さえた上で、美濃で東国の騎兵を集め挙兵したのが大海人皇子です。
壬申の乱は瀬田唐橋の戦いが有名ですが、実は美濃から不破の道を抜けて、近江に入った付近、
琵琶湖東岸での初戦の勝利が以降の帰趨を決したと言われます。息長横河の戦いです。
「息長」は【オキナガ】と読みます。かつて米原付近に実在した地名です。今は郵便局や小学校などに
名残の様にその名が残りますが、同所を流れる天野川もかつては息長川とも呼ばれていたそうです。
一国一城令は大坂落城:夏の陣(1615年4〜5月)の直後、同年8月に発布されます。乱世の終焉
ですが、江戸期を通して、他の有力譜代大名に施策的な転封が繰り返される中、彦根藩:井伊家は
存続し、地政的な物流掌握の一例かもしれませんが、結果として彦根城は国宝として今に至ります。
千代田区紀尾井町と言う地名があります。もともと同地の清水坂と言う坂の周辺一帯には
江戸時代に多くの藩邸がありました。その坂の南側には紀州徳川家、北側には尾張徳川家・
彦根井伊家の屋敷が角を並べていたので、通称:紀尾井坂と呼ばれたのが名称の由来です。
今でも紀伊・尾張・井伊の各藩邸跡の石碑があります。紀尾井坂から南東の清水谷公園を
左手に見つつ赤坂見附に到る紀尾井町通りは八重桜の並木道で、開花期は必見です。
ソメイヨシノに比べると、開花は1〜2週程度遅くなる様です。