[2025年9月24日]
選挙とは、投票により首長や議員又は団体の代表者や役員を選ぶ事ですが、それとは別に、
古代中国では官吏登用制度を指す用語で、科挙以前の制度名が選挙でした。語源としては
「郷挙里選」…前漢において、地方の郷・里の郷長・里長が、当地の地方官と協議した上で、
官吏候補者となる人材を国に対して推薦する制度…「選抜」して「推挙」した訳です。
この「選挙」システムでは、選ぶ主体は中央政府…ひいては皇帝だったので、現在の選挙とは
主旨が全く異なります。この漢代の選挙システムが六朝時代には九品官人法へと移行し、
隋・唐を通じて科挙制度へと発展していく事となった様です。中国歴代王朝の正史には
「選挙史」と言う項目もある様ですが、これは官吏登用制度の記録と言う事になります。
或いは、「科挙」とは「科目による選挙」と言えるかもしれません。隋唐以前は、権力者や貴族、
あるいは彼らの子弟達が役職・要職を占める時代が長く続いていましたが、隋の文帝に至り、
初めて科挙(貢挙)が導入されたと言われています。科挙は皇帝の行う国事行為の1つでした。
隋の文帝は有能な皇帝だった様で、中でも律の簡素化・軽減と明瞭化、官制改革、科挙制度は
その後の東アジアに広く長期の影響…と言うより、司法・行政面の遺産と呼ぶべきものでしょう。
科挙の始まりの日時は定まっていない様ですが、概ね西暦600年前後と言われています。
科挙の廃止は清朝の1904年とされていますので、1300年も歴代中華王朝を通して実施され、
最盛期には3000倍に達したとも言われる資格任用制:メリット・システム(merit system)でした。
上記の様な性格を持つ科挙でのカンニング行為に対する罰則は重く、場合によっては
死刑とされた例も記録には残っているそうです。廃止された理由は、ご想像の如し、です。
形骸化し、政治・経済・民政が軽視され、詩文・典籍の素養のみが肥大化した為と言われます。
日本での科挙導入は平安時代に入ってからとされています。しかし、官僚育成機関としては
大学寮やその前身に相当する仕組みが大化の改新後の天智天皇の頃から存在した様で、
日本書紀や懐風藻などに関連の記述が見出せるそうです。但し、或る程度確立された制度
としては、壬申の乱(672年)を経て、8世紀大宝律令下での学制の制定を待たねばなりません。
平安時代の初期には、科挙に合格し、庶民から四位にまで昇進した稀例も残っていますが、
上級貴族には蔭位の制という別ルートもあったので、早くも平安中期に日本の科挙は形骸化
してしまった様です。蔭位とは…律令制体下で、高位者の子孫を父祖である高位者の位階に
応じて、任官始期から一定以上の位階に叙位する制度で、父祖のお蔭で叙位するワケです。
源氏物語の「少女」の帖では、光源氏が実子:夕霧の元服に際して六位に付かせます。
六位と言っても、決して低過ぎる階位ではないのですが、父の光源氏が内大臣である点を
考えると、世間では夕霧は四位辺りではないか?と推測されていた…様です。摂関時代、
庶民からは到達点の四位が、上級貴族の子弟では出発点であった事が窺える内容です。
少女の帖には元服後の夕霧が大学寮に入る為のテスト対策の様子も描かれています。
それによると大学寮に入るにも口頭試問の様な試験が課せられていた様にも見えます。
大学寮の学生(がくしょう)には先ず「寮試」が課せられます。その「寮試」に合格すると、
擬文章生(ぎもんじょうしょう)になれます。次に「省試」に合格すると文章生(もんじょうしょう)
になります。大学寮は式部省の管轄下だったので、省試の名がついています。
最終試験が「方略試」とか「秀才試」と呼ばれる試験で、これらは別名「対策」とも呼ばれて
いた様です。「対策」の名称は、「策問」と言う質問(試験)に対して自己の答案を策として
献じた試験の形式が由来とされています。この対策と言う試問を受験し、その結果によって
官職に就けた…様なのですが、この対策のプロセスにも諸説・諸例がある様です。
文章生の一部には得業生(とくごうしょう)として大学に残り、博士を目指した者もいた様です。
擬文章生 20名 予備学生(文章生候補)
文章生 20名 文章道の正規生
一部とは…文章生20名の内、成績上位者2名が得業生への狭き門だったそうです。
しかしながら…狭い門を通過しても、上級貴族や賜姓皇族でもない限り、高位への昇進は
殆ど不可能でした。文章博士頭や春宮学士は従五位上、これは少納言相当で、中納言は
従三位です。官位相当表では、医博士や陰陽師では頭まで行っても、従五位下の様です。
従五位下は殿上人の最下位、公卿とは従三位以上を指しています。
今昔物語集の巻26第17話『利仁の将軍若き時京より敦賀に五位をいてゆきたること』や
それを下敷きにしている芥川龍之介の芋粥を見ても、五位の実情が見えてくる様ですね。
「芋粥とは山の芋を中に切込んで、それを甘葛の汁で煮た、粥の事を云ふ」とする
芥川の「芋粥」に従うと、砂糖の希少な当時、甘葛を使ったレアなデザートだった様です。
南蛮貿易で砂糖の輸入が活発になる以前、甘葛は水飴・蜂蜜と並び主要な甘味料とされ、
枕草子四十二段にもかき氷の上からアマヅラをかけて食べる描写が残されています。
「あてなるもの…削り氷にあまずら入れて、あたらしきかなまりに入れたる」…とは、削り氷を
金属の小椀に盛り、薄山吹色の甘葛をかけたものは「あてなる」…典雅で上品、と言う訳です。