[2026年1月10日]
現代の東京・・・特に23区を例にとると、北は板橋区・北区・足立区、東は葛飾区・江戸川区、
南が大田区・世田谷区で、西が杉並区・練馬区・・・が範囲と言えるかもしれません。東京の
23区は面積で言えば、東京都全体の28%強ですが、人口では7割近くの密な状態です。
そうは言っても、それは最近の事で、江戸時代でも初期の頃の同地はもっと狭い範囲でした。
江東区:深川の地名は同地を1600年前後に埋め立て開発した深川八郎右衛門に由来します。
中央区の築地もその名の通り埋立地です。江戸時代の1657(明暦3)年の明暦の大火の際に
焼失した浅草の西本願寺(今の築地本願寺)の代替地として造成されたと聞いています。
以前の本頁でも触れましたが、隅田川の東日本橋⇔両国に架かる橋は両国橋ですが、この
橋の呼称での両国とは武蔵国と下総国の二国で、江戸初期の隅田川東岸は下総国でした。
「武蔵の国と下総の国との中に いと大きなる河あり それをすみだ河と いふ」とは伊勢物語の
有名な段:東下りの中に見られる表現です。武蔵と下総の国境が変更され、隅田川の東側が
武蔵国に編入され出すのは1686年・・・徳川5代将軍:綱吉の頃からです。
さて、海浜・河川部から陸路に視点を移すと・・・お江戸の日本橋は五街道の起点でした。
五街道の各宿場には伝馬の常備を義務付け、道を拡幅、宿場を整備し、一里塚・道標を設け、
砂利や砂を敷いて路面を固め、松などの並木を植える等の施策が行われました。家康による
インフラ整備の先鞭ですが、五街道が正式名称となったのは8代:吉宗の頃と言われています。
東海道(1624年)・日光街道(1636年)・奥州街道(1646年)・中山道(1694年)・甲州街道(1772年)・・・
( )の中は各街道が完成したと言われている年度(目安)になります。家康の江戸入府が1590年、
夏の陣1615年、吉宗の将軍職継承1716年、田沼意次の老中就任が1772年…の様な具合です。
また五街道とは言いますが、日光街道と奥州街道は起点の日本橋から分岐点の宇都宮までの
17の宿場は重複しており、宇都宮➡日光までは4宿だけです。その様な事情で、江戸に至る前の
4ルート上には最後の宿場が街道毎に1宿:計4つ存在した事になり、これらは総称で江戸四宿
と呼ばれ、日本橋を出発して最初の宿場町ですから、当然ながら四宿は江戸府外となります。
日光・奥州街道は千住宿・・・今の南千住・北千住付近:隅田川の両岸で、水戸街道との分岐点
東海道は品川宿・・・中世以来の品川湊に近く、四宿でも別格の規模で、目黒川河口付近一帯
中山道が板橋宿・・・北から上宿・仲宿・平尾宿(現在の板橋付近)と連なる三つの宿場の総称
甲州街道の内藤新宿(四谷新宿)・・・現在の四谷4丁目交差点〜新宿3丁目交差点付近一帯
上記が江戸四宿です。四宿は全て現在の23区内ですが、ザックリ言うとこれら四宿よりも更に
内側が当時の江戸の範囲となる訳です。区なら千代田・中央・港・文京・台東・新宿区東側・・・
程度の地域です。江戸時代・享保年間以降の江戸府内の人口は70万〜110万程度の範囲内で
推移していた・・・と聞いたことがあります。千代田・中央・港・文京・台東+新宿区東側の近頃の
人口も110万人前後の様ですから、密度的には今と稍々近い感覚があったのかもしれません。
高輪ゲートウェイ駅付近では、明治の蒸気軌条跡の発掘が行われましたが、絵や資料で見る
新橋⇔横浜の最初の鉄道は海沿いでした。蒸気機関の排気による火災への懸念、用地買収や
景観や人心の問題、敷設期間とコストの兼ね合い…諸々の理由で鉄路は浜や磯を選んで走る
様なルートだったそうです。この辺りの事情は1964年の東京五輪に先立つ首都高速道路網の
整備状況と似通った部分があるのかもしれません。
五輪と首都高はさておき、高輪や品川のJRを海岸線とは感じない程に、今でも陸地は拡がり、
海は遠くなっています。鉄砲洲や明石町あたりも大名屋敷の普請がらみで埋め立てられたと
読んだ記憶があります。どうやら江戸は最近の東京に比べ…やはり随分と狭かったみたいです。