[2013年2月2日]
新聞の社会面や教育面に、いじめ・体罰・暴力などの記事のない日はありません。
社説・コラムにも登場するし、連載記事にもなってよく見かけます。1面に躍り出るときさえあります。
とても悲しむべきことです。
最近はタイトルを一見するだけで、本文を読むことが少なくなってきました。 どうも気が進まないからです。
2/1付けの朝日新聞の天声人語は、 「ある電力会社の不祥事・・・」 という書き出しだったので、また発覚かと思い、ついそれにつられて読みましたが、柔道女子の日本代表監督の暴力や暴言にまつわる内容でした。
この中で 「愛の鞭」 という言葉を久方ぶりに目にしました。
ところで、私事で恐縮です。40年以上も前に話しです。
私が小学3年生と4年生のときの担任だった寺田先生という男の先生は、 「木の棒」 を使っていわゆる 「体罰」 を公然と行っていました。
しかし、小学校6年間3人の担任の中で寺田先生が一番好きでした。皆からもかなり好かれ慕われていました。
この 「木の棒」 は、バットのようなもので、太いものと細いもの2種類あり、 「悪さ」 の度合いによって使い分けられていました。細いほうが痛いのです。
黒板に両手をついてお尻をちょこんと突き出し、そのお尻を寺田先生がこの木の棒でしっかり叩くのです。
細い方で叩かれると、しばらくはお尻がジンジンするというかヒリヒリして椅子に座れないほどになります。
私も、何度かご相伴にあずかりました。
これは、罰として 「仕置きをする」 「灸をすえる」 のです。見せしめ的な意味合いもあったのでしょう。
これを今、学校で先生がやってしまったら、どうなるでしょうか。
「先生が生徒を日常的に棒で叩いて体罰を加えている」 として大問題となり、大きく報道され、先生や校長はつるし上げられ、挙句免職となってしまいかねないでしょう。
教育委員会、文部科学省、政府、さらに警察までもが介入して恐らく大変な事態になる。恐らく “世論” も許さないでしょう。
しかし、寺田先生の 「肉体的なお仕置き」 は、当時 「体罰」 や 「暴行」 であるという認識は、誰一人として持っていませんでした。文句を言う親もいませんでした。
だから、一切問題とならなかったのです。 (と、かなりあとになってから母から聞いた記憶があります) それどころか、生徒や親はこの行為に愛情さえ感じていました。
つまり、幻想ではない 「愛の鞭」 だったのです。嘘偽りはありません。
それがなぜ昔は許されたのでしょうか、この感覚・認識、あるいは価値観の大きな差が生じている原因は何なのか。
それは、時代や世の中が変わったから、人々の考え方が変わったから、教育のあり方が変わったから・・・ ということではないと思う。
人としての根源的な部分が変わってしまったのかなとも思うのです。
担任の寺田先生の深い愛情と熱意が、先生自身と生徒の結びつきを深くし、ゆるぎない信頼関係を生みました。
その関係においては、肉体的なお仕置きは、権威主義的な服従させるためのものでは決してなく、かなり痛さも伴い辱めも受けましたが、とてもポジティブなパフォーマンスだったように思えるのです。
事実、その場は妙に明るかったし、怒られてお仕置きを受けても、気分は逆に晴れやかだったことをよく覚えています。
信頼関係さえあれば 「体罰」 は許される、と言っているのではありません。
今はどんな場面においてもそれは禁じ手であることに間違いありません。
大事なことは、先生と生徒、親と子が、もっともっと言葉と言葉、心と心のふれあいを多く、深く、強く持つということ。
そうしなければ、しなやかな心の強さと優しさをもった子どもは育ちにくい。それが、現代社会だと思います。