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学研CAIスクール
中村橋教室

[2013年6月15日]

梅雨ってなあ〜に?

授業の冒頭に、子どもたちにとって何か興味付けができるような話題を見つけて話をしています。
新聞ネタだったり、私自分の身のまわりのできごとであったり、ちょっと怖い話だったり、 「なぞなぞ本」 から問題を出したりと、たわいのない話がほとんどですが、季節を意識させるような話題になるよう心がけています。
都会の子どもたちは地方の子どもたちと違って季節感が乏しいからです。


先日、 「梅雨」 の話をしたときのことです。
今年は梅雨入りが5月中だったこと、梅雨入り直後は晴れが続いたこと、季節はずれの台風が日本に接近したこと、沖縄が平年よりかなり早く梅雨明けしたことなど、季節や気象に関する話にみんな興味を示していました。
そのとき、感性豊かな小学校3年生の女の子が、とても素朴な疑問を投げかけ、私はそれにはっとしてしまいました。


「ニュースで、今日からですよって言うと “つゆ” なの?」
「いっぱい雨が降ると “つゆ” って言んだと思ってた」

この女の子の指摘に、思いも寄らず、頭から水を浴びたような気持ちにもなりました。しかし、とても的を射ており、至極もっともなことであることに、その直後思わず「あっ」と声を出して気付きました。
気象庁の発表をもって、梅雨を認識するという前提が当たり前のように私の中にあったことを、この女の子は私に気付かせてくれました。


もちろん、理科的には 「日本列島付近に停滞前線 (梅雨前線) ができる頃」 ということになります。生徒にもそう教えている一方で、心情的に、そもそも梅雨は “蒸し暑くてジメジメしていて嫌な季節だ” という感覚が大きく自分を支配しています。
そして、梅雨は日本列島の重要な水資源であり、空梅雨になったときの様々な悪影響を生徒に教えていることに矛盾めいたものを、はたと感じるのです。


折しも、数日前の新聞の投稿欄に 「梅雨入りの発表はいらない」 というタイトルの30代男性の投稿がありました。
そこには、 「梅雨の始まりや終わりは発表をもって押し付けられるものではなく、雨の多さや湿気の高さから人それぞれが感じればよいのではないだろうか」 というくだりがありました。
思わず膝を打ちました。まさにその通りだと。


さらに、こう締めくくっています。 「わざわざ発表しているのは梅雨だけだ。 (中略) 四季のある日本のよさや楽しみは、移りゆく季節を目や肌で感じられることだ。 (中略) いっそのこと、梅雨入りや梅雨明けの発表をやめてはどうか。自らの感覚で四季いや五季を楽しめばいいと思う。」 と。
いやはや妙に得心が行きます。


先の小3の女の子が言いました。
「私、雨ってけっこう好きなんだ」
「だって、葉っぱやね、カエルやカタツムリがなんか元気になるみたいだし、この前すっごくかわいい傘買ってもらったから・・・」
私よりもしっかり季節を感じて、何とも幸福感に満ちていました。




七変化

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