[2013年12月29日]
人は誰しも一度や二度は、大きな失敗をするものです。しかし、その失敗がやがて実を結び、大きな成果として大輪を咲かすことになります。
かの有名なエジソンも、電球を作るために何千回も実験を繰り返し失敗をしたそうです。ところがエジソンは 「私は失敗を一度もしていない。何千回も上手くいかない方法を発見したんです」 と言ってのけたそうです。まさに失敗は成功のもとです。
ところで、長年生徒の様子を見てきて感じることの一つに、間違えることやわからないことに対して、恐怖感や罪悪感あるいは恥ずかしさのようなものを過剰に抱いてしまう子どもたちが増えてきているような気がします。
わからなくなると、聞くことすらできず泣き出してしまう子もいます。保護者に伺うと、ご家庭でもそうなのだと言います。
ですから、子どもたちには、 「一度や二度でわからなくてもいい、間違えてもいい、逆にどんどん間違える事の方が大事、そうしないと本当にわかるようにならない」 と常々言うようになりました。そして、エジソンの話を折りに触れ話しています。
そうすると、子どもたちは何かから解放されたかのように安心し、少しずつ積極的になってきます。
この原因をつらつらと考えていくと、根本的に 「学ぶ」 ということに関して子どもたちの意識がどこかずれているような気がしてきます。少なくとも、私自身が小中学校の時分と何かが違うな、と感じるのです。
このようなことから、今年は春先から小中学校の学校公開に度々足を運びました。学校の様子がとても気になったからです。
若干色眼鏡で見てしまったことが大きな反省点ですが、とても真面目で優秀ではあるのだけれども、何かを許さない緊張した空気や雰囲気を感じた学校や学級もありました。それは学習面だけではありません。
同時に、様々な特性を持つ子どもたちが集まる公立小学校や中学校で、一様に学力や様々な能力を上げていく難しさも改めて感じました。
でも、一様ではないからこそ 「みんな違って、みんないい」 (金子みすゞ) の精神が育まれる土壌があるのではないだろうか、とも感じました。これこそが、公立の良さではないでしょうか。
さて、勉強の 「強」 という字は、 「つよい」 という意味と 「しいる」 という意味があります。勉強は「強いられる」 という感覚になってしまうと、間違えは許されない、間違ったら恥ずかしい、という意識が生まれてしまいます。
勉強は、厳しくも明るく楽しく出来なければ、そこから向上心や知的好奇心は生まれにくいと思います。
間違えて、つまずいて、失敗して、ちょっと恥ずかしい思いをすることを許す寛容な雰囲気は、俄然意欲を刺激します。とても活気があり生徒が生き生きしているそんな学校の授業を拝見して、やはりこれだ、と思いました。