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学研CAIスクール
中村橋教室

[2014年7月3日]

きちんと叱る って難しい

先月上旬、地元の小学校の運動会を見に行きました。
この小学校には特別支援学級があります。運動会の競技は、普通学級の児童と可能な限り当たり前のように一緒に行われます。
感動的なシーンがあったり、ちょっとしたドラマが生まれたりもします。


運動会の花形競技と言えば、徒競走。もちろん、特別支援学級の児童も普通学級の児童と一緒に走ります。

ヨーイ、パーン。
ピストルの音に、反射的に耳を押さえてしゃがみこんでしまいます。でも、「○○くん、走るんだよ、ガンバレ!」 という応援の声に促されて、ゆっくりと走り始めます。
応援団も一層力が入り、児童の歓声も見守る保護者の声援もますます大きくなってきます。

ゴールの手前10メートル辺りから、“ガンバレ” コール一色になります。
そしてゴールした男の子を、待っていた母親が駆け寄って抱きしめ、歓声と拍手は絶頂に達します。


ゴール近くにいた私は、この子がゴールする少し前、大きな怒声を耳にしました。この徒競走の組で、転んで1位になり損ねたわが子を叱る母親の声でした。
あまりにもきつい言葉に、その周りの人は皆唖然としてしまった様子でした。
私も、びっくりするというよりも、背筋がぞっとしました。

転んで1位になりそこねた普通学級の男の子と、大歓声を受けた特別支援学級のビリの男の子では、何もかも対照的でした。
周りの目、母親の振る舞い、本人の表情・・・ そして、きっと一番の違いは、本人の気持ちでしょう。

たかが徒競走で転んだからといって、感情的に怒ることなのか。あの怒声は、母親自身の我欲が満たされないことによる単なる怒りなのでしょう。何とも身勝手で心の狭い人なんだろう、と失礼ながら思ってしまいます。

感情的に怒ることが、いつも悪いとは言えません。時に憤怒の情に突き動かされ行動することも、怒りを表出することも必要だと思います。
但し、それは相手が対等もしくは自分より立場が上だったり腕力が上だったりする場合に限られます。例えば、国家や政府など権力や明らかな悪者に対してです。

叱るとき、その対象が自分より強くても大きくても、上からの眼差しが含まれています。ましてや、相手が子どもであったり、部下であったり、自分より弱い立場の人間であればその眼差しは強くなります。

だからこそ、叱るときは 「理性」 が要るのです。
叱られる対象の人が、対等に反論や反抗ができない立場にある場合は、理性に裏打ちされた相手を受容した上での 「誤解なくきちんと伝えたい。正しいことを教えたい。事の理非をわかって欲しい。」 という想いがある場合のみ、叱る資格があると思います。
つまり、大人としての愛情があってこそ、叱るという行為がいい結果をもたらすのだと思います。

先の母親は、完全に キレていました。結果が自分の期待に反してしまったことによる憤りを爆発させていました。
これは、単に鬱憤を発散させているだけですが、理性的な人でさえ、怒ると叱るとを混同し、理性と愛情を一瞬どこかに置き忘れてしまいそうな場面も少なからずあると思います。

理性と愛情を込めて、さらに理知的に叱るという行為は、褒めることよりも格段に難しい振る舞いだと思います。