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学研CAIスクール
中村橋教室

[2015年1月21日]

ありのまま

自宅の近所に、なかなか元気な幼稚園があります。
園庭はさほど広くはなく、少々気の毒なのですが、その園庭を、この寒空の下、園児たちは裸足で走り回っています。半袖半ズボンで。
サッカーがとても盛んです。遊びの延長と思いきや、男性のインストラクターのきびきびした厳しい指導に驚きます。みな真剣に、所狭しとボールを追いかけています。


この幼稚園の園庭にある砂場以外の唯一の遊具は、「すべり台」 なのですが、結構な高さがあり、一番上の台からはスロープが2本伸びています。
ちょっとした展望の高さは、そこに大人が立っても心地よいものです。
子どもたちにとっては、男の子であれば、流行しているヒーローの基地であったり、悪者の隠れ家であったり、お山の頂上であったりします。


ほとんど女の子のとっては、どうやらそこは氷のお城の展望台になっていたようです。
皆、順番待ちの行列を作り、やっと回ってきたお城の展望台に立ちます。
そこで、
「ありのーままのーすがたみせるのよーありのーままのーじぶんになるのー」 と空に向かって熱唱し、満足顔で降壇。
そして、次の人に譲るという一連の流れがスムーズに続くのです。これがとても面白くて、思わず絶賛の拍手を送りました。
今まで延べ何十人というアナの熱唱を聴き、その度ついつい笑がこみ上げてきます。
何と愛おしいことでしょうか。


さて、この 「ありのまま」 という言葉は、ともすると 「他人がどうであろうと、自分の本能の赴くままに振る舞いをしてもよい」 などのわがままで、自分勝手な行動を肯定してしまうように都合よく考えがちなような気がします。
子どもたちが歌う歌の原文 “Let it go.” も、「放っとけ」 「どうでもいい」 という意味を持っています。
しかし、 「ありのまま」 を生きて欲しい子どもたちや人々への私の思いは、ちょっと違います。
極端に言うと、反社会的な行為のことではなく、自分という全てを受け入れ、大切にするという心もちや思考について、「ありのまま」 であって欲しいのです。


園児たちを見ていると、「見て! 見て!」 と言って自分を様々な姿で表現します。
何かできたり、発見したりすると、得意げに人に見せたり話したりします。
その時の誇らしく自信に満ちた姿こそ、「ありのまま」 なのでしょう。
自分に少しも疑いのない晴々とした表情に、大人の私たちが忘れかけていたものを思い起こさせてくれます。

しかし、社会性が最も育つ頃に、大人の都合で評価されて育ってきてしまった子どもや、過保護・過干渉によって自分で感じて自分で考えて行動する機会が乏しかった子どもたちは、 「ありのまま」 を生きにくくなってしまっています。
最近の小学生を見ていると、それを痛烈に感じます。


いまどきの小学生は、いわゆるワルガキはあまりいません。妙に従順で聞き分けがいい。おとなしくて、あまり無駄口もききません。
学習においては、間違えたり、失敗したり、否定されたりすることを、事前に回避しているように思えてなりません。
一見、大人受けするいい子がとても多いのです。


これは、大人の子どもに対する過剰な期待、要求が子どものありのままの自然な姿を抑え込んでいるような気がするのです。
大人は、自分の意志や欲望や感情を自由に表現させる前に、それらを抑えることをよしとすることを刷り込んでいないだろうか。
日々子どもたちと接しながら、そんな自戒の念を抱きます。