[2012年4月23日]
よく日本と米国との比較で、もっと日本は、米国流のベンチャースピリット育成法を見習うべきだ──とした論調が、数多くあります。
確かに、日本の人材というと、優秀な人間であれば、安定志向が強く、大企業や官庁を志望しがちです。対して米国の場合、優れた人材ほど、新たに会社を立ち上げることが多く、数年前はベンチャーでしかなかった会社が今や世界に名だたる大企業へと変貌を遂げているケースは枚挙にいとまがありません。
もっとも誤解をおそれずいえば、米国では、たとえば、アップルのスティーブ・ジョブズや、マイケル・デルがコンピューター業界で頭角を現したとき、手放しで彼らへの称賛ばかり強調されたわけではありません。
若い才能が花開き、新たな産業をけん引していく中、批判の矛先を向けられたのは、教育業界でした。優れた事業家を育てるのに、そもそも大学など必要あるかとの論が展開されたのです。なぜなら、スティーブ・ジョブズはリード大学を中退し、マイケル・デルもまたテキサス大学オースティン校をリタイアしたからです。
ちなみに、ジョブズは大学中退後、聴講生として大学へもぐりこみ、文字デザインの授業を受講したことをきっかけとし、のちのアップルのコンピュータに、美しいフォントを採用しました。味気ない記号を打ち込むだけだった機械に、ジョブズ流のスタイリッシュな文字の形を取り入れることで、人間とコンピュータが融和しやすい状況を生み出しました。
元々コンピュータとは専門家だけが使うという先入観で凝り固まっていましたが、ジョブズによる使いやすさを優先にした新しい発想が、コンピュータを誰でも使える文房具のような道具に仕立てることに成功します。
考えるに、王族、貴族が支配する時代から、市民がイニシアチブをとる時代へ切り替わる「市民革命期」を引き合いに出せば、やや大げさかもしれませんが、まさに世界がひっくりかえるほどの「革命的」発想の転換があったのは事実でしょう。いずれにしても、ジョブズが発明した言葉でもありますが、「パーソナルコンピュータ(パソコン)」の時代が到来します。
ただ、ここで話を元に戻しますが、若い才能が、劇的に世界を変えていく時代にあって、その割には、若い才能を育てる教育環境の貢献度があまり高くなかったのは事実のようです。
しかしながら、米国の教育機関が健全なのは、産業界における人材の活躍と教育の在り方を結び付け、時として問題が見つかれば、躊躇なく改革論が起こることです。
最近になって、米国の教育業界で問われているのが、専門性への偏りです。一時期経営学の分野がもてはやされ、優秀な人材を育てる専門学部のシステムが構成されました。ところが、育った人材はそれほど社会に出て通用しないというのです。そこで、改善策として、リベラルアーツ(「文系・理系を分けず、種々広く知識を養成しながら、創造的な発想法を訓練する教育システム 日本でも一部の大学で採用)が脚光を浴び始めています。
とりわけ、進化するテクノロジーが多様性をかなえてしまう時代なので、複合的、網羅型の思考力が、求められるのでしょう。要するに深さを知るスペシャリストよりも、広範囲の守備力に長けたゼネラリストが活躍する世紀です。
学生時代に、幅広く歴史学や、哲学、心理学、生命科学、物理学など数多くを学ぶことで、横ぐしをつくり、横につなげ横に広げる力が養われていくのではないか──と突破口を見つけたなら、米国流は実に速やかです。決して問題の提示を放置せず、解決へ向けたシステム改善にエレルギーが費やされていきます。
何も教育分野に限りませんが、こうした現状維持の打破、改革のスピードを見るにつけ、ますます日本は取り残されていく気分になります。
定めし珍しいことに改革論に火がついたとして、不思議な国日本では、すぐさま情緒的に反応する批判屋たちが勢いづきます。なぜだか改革論者への批判ばかりが先行し、まるっきり論点がずれてしまいがちです。しまいには「改革するリスク」のほうが、「現状維持のリスク」よりも大きいという不可思議な決定を下すことが多く、結局のところ抜本的に変わることがないのが、骨抜き体質の日本の現状です。
とはいえ、ようやく、日本でも変革の動きが出てきています。さすがに滅びゆくのを何もせず、ただただ指をくわえて待つことなどできません。たとえば、国際教養大学のように、世界に通用する人材づくりに力を入れ始めるケースや、あるいは東大が秋入学の素案を提示するなど、教育への改革が始まっています。
日本の教育のこれからに期待するとともに、教育に従事する者として、草の根の教育改革を推し進めていきたいと考えます。いうなれば、社会に出て活躍できる人材づくりこそが、教育に求められる役割と信じ、日々努力、日々改善を重ねることです。