[2012年5月30日]
社会に出れば、当然人は働きますが、働き手として優れているか否かは、結論を先に言えば、その人に創造性があるかどうかです。
人が生きる社会では、商品やサービスを提供するのが社会人の役割であり、消費者の「買いたい」という要求を満たさなければなりません。決して独りよがりになって、うぬぼれの気持ちが赴くままに自分には能力があると判断できるもではなく、お客様の満足をかなえたかどうかによって、仕事人としての評価が決まります。
では、お客様の満足がどのようにして表されるか──ということになりますが、すなわち、売り出した商品やサービスを購入していただけるかどうか──ということに集約されていきます。
とりわけ、テクノロジーの発達が進んだ社会にあっては、頻繁に新たな商品やサービスを生み出すことが求められます。このような創造性に富むクリエイティビティーという能力があるかどうかが、社会で活躍できるかどうかにそのまま置き換えることができますが、そうすると、社会へ出るまでの養成期間であるべき学生時代に、このクリエイティビティーはどのように評価されてきたか確認してみる必要があります。
ところが、今の日本の教育にいたっては、詰め込み主義の優先度が高く、一問一答式の暗記主義がまかりとおっています。一部の教育期間では確かに、創造性を見極める試験を導入している場合もありますが、それ以外は見るも無残、本当にひどいものです。
たとえば中学、高校の定期テストなどその典型で、暗記尽くしであって、社会に出て必要な力はこんなものではないはずです。我々の最終進化系が、クイズ王ならば、教育法として大正解なのでしょうが、日本人全員がクイズ王を目指すなんてあまりにおかしすぎます。
だからとても残念なのは、豊かな才能を眠らせてしまうことです。きっとピカイチの優れた発想力は、より一層磨けば光るのに、これが学校教育では評価される機会が少なく、記憶上手ばかりが成績上位にきてしまいます。
これがまっとうな教育の場とは思えません。大人になったとき、活躍できる資質があるのに、人材を埋もれさせかねない日本の詰め込み主義教育って一体何がしたいのでしょうか。まさか愚民に育て上げるのが、この日本の国策としたら、ますます滅びゆく一方です。
いみじくも、外山 滋比古氏は、教育者のバイブルともいえる、著書「思考の整理学」のなかで、コンピュータの登場により、暗記の役割は機械に譲り、人間の脳は、「知識の倉庫」から「創造の工場」とするべきである──と指摘しています。
驚くことに、この指摘をした時期とは30年前のことであって、同著の出版から30年たちますが、あまりにも日本の教育は旧態依然たる様を保ちすぎています。いまだに、脳は、「知識の倉庫」であれ、と飽きもせず、不安がらず、何の疑問も抱かず、ただオウムのように昔のスローガンを唱え続けます。
呆れるを通り越して、日本人として生まれ、日本人として生きた時代は何だったのか疑問すら覚えます。が、それもこれも、私も含めた日本全体の責任です。この責任を痛感し、この社会を愛するのなら、今こそ、教育の根本を変え、優れた人材輩出の場としなければなりません。