[2012年9月23日]
当塾は教育の場ですので、そこには教えるプロの人間たちが集まります。
どうして、教育の道に興味があるのか──指導者たちへ尋ねると、尊敬する学校の恩師がいて、その人に憧れたという経緯を聞くことがあります。
私はこの言葉を聞くと、とてもうらやましいと感じます。残念ながら、私の小学から大学時代の間、そうした教育者にめぐりあう機会はありませんでした。ただとても運がよいことに、社会に出て、まだまだ若く生意気盛りだった頃に、優れた仕事人と出会えたことが、今の自分の大半を創っています。
この人のクリエイテイィビティーやリーダーシップ、仕事への責任感、問題点の早期発見とその解決力は、今なお遠く及びませんが、いつだって仕事に取り組む際に、優れた教科書があるので、それを信じてただひたむきに仕事へ没頭することができます。
そして何よりも、チーム一体で全力を貫くことがたいへんエキサイティングで、一つの仕事を達成した後の世界観の広がりを、仲間と共有できる喜びは、何よりも替えがたいことです。いつの間にか少しは成長した今の自分自身に、揺るがない自信とまでは行きませんが、愛着のような気持ちまで芽生えています。
もちろん、力量不足ではがゆいことばかりですが、けれども現在進行形的には、ストレスフルな諸問題について、これがどのように解決するか道筋をつける発想に重きを置けるので、未来への希望を増幅させることができます。この未来解決型の思考法が、自分の本来弱いメンタリティーをコントロールし、ますます仕事へのチャレンジ精神に火をつけてくれます。
ただ、あまり過去に生きたくありませんが、自分が子供の頃に、もっと自分の生きる活力を目覚めさせてくれる恩師のような人にめぐりあっていたのなら、今の自分からもっと無骨さがとれ、より洗練された人間になっていたかもしれません。
これと同時に思うのは、案外、尊敬できる先生に出会う方が珍しく、多くの人間たちは私のような憂き目をみているのかもしれません。
最近になって、いじめによる自殺問題がクローズアップされておりますが、学校で犯罪行為が野放しなのは、今も昔もあまり変わらないという印象があります。
くわえて、神聖な学びの場である学校であるにもかかわらず、犯罪が頻発し、実態として、それを見て見ぬふりをするのが、学校の先生の大多数なのではないでしょうか。よくある不愉快なパターンとして、いじめによる自殺が起きた時、まず担任は雲隠れし、校長もまた自己弁護に終始してしまいます。一人の尊い命ある人間が、自分たちが管理している教育の場のなかで、死に追い込まれたにもかかわらず、率先するのは自己保身です。
しかも、この問題は現場で起きているにもかかわらず、文部科学省や、教育委員会という学校教育の枠組みをつくる人間たちに責任を押し付けてしまいがちです。現場の先生たちは、自分の仲間たちが人を死へ追いやる事態を招いているにもかかわらず、なぜ声を上げていかないのか、あまりに不可思議です。国家がだめ、教育委員会がだめなら、自分たちが草の根の運動でも起こし、健全な教育を自らの手で創造すべきではないでしょうか。
もちろん、少ない数ながらも、教育現場に優れた教育者がいることを信じます。そして、ぜひとも、このような尊敬すべき教育者を見習う形で、授業というぎっしり詰まった魅力を、若い才能たちへ教えてほしいと願います。まさに教育を受ける過程にいる子供たちは、皆ひとしくダイヤの原石です。このダイヤに本物の輝きを与えるには、ひたむきに学びへ没頭する力を育て上げることです。要するに、勉強がつまらないから、使うべきエネルギーを悪事にうつつを抜かす方へ振りまくのではないでしょうか。
したがって、教育者たる者、まずなすべきはひとつです。どこまでも知的好奇心をくすぐり、躍動的に思考することで、見える世界が広がる感覚を、思い切り子供たちへ与えることです。今の学びの一つ一つを、彼らが未来に活躍する一点へつなげるのが、本物の教育の場だと私自身は信じます。
やはり人間こそ、社会における最高の財産です。私もまた、民間企業に籍を置きますが、教育者のはしくれですので、健全な学びに興味を抱かせ、豊かな思考力を育むことで、優れた人材として社会へ輩出しなければなりません。不健全ないじめが社会現象化するなか、今の子供たちを変えたいなら、まずは教育者こそ、立ち上がらなくてはならないはずです。