[2012年10月7日]
大変偉そうなものの言い回しですが、何か事を起こすときに、私なりの流儀というものがあります。この流儀は、私自身が社会に出て学び、獲得したものであって、もっと早く、学生時代にこの方法に気づいておけばよかったとも思いますが、何にせよ、時期のずれはあったものの、今の自分の生活はなかなか気に入っています。
折しも、こうしてブログを書いているわけですが、休みなく真剣に毎日続けているのも決して悪くありません。自分の意志、自分の決断をもって、教育現場の表現者として思いを残しているからこそ、あるいは自分の些細な行動が少しは世界へ影響を与えると願うからこそ、ブログの執筆もたのしめています。
もちろんブログ記事の更新よりもずっと多くの仕事に携わっておりますので、種々の仕事にまつわることはすべてにおいて、ブログ同様に、どうやってたのしむか──を一大テーマとし、つたないなりにも、日々何よりも手抜きを嫌い、挑戦している次第です。
もしもこれが、自分の学生時代多くの先生方に強いられたように、勉強は我慢、仕事は我慢と押し付けられたなら、おそらく、ブログも、教育業も長続きしません。言うにおよばず、毎日現れる様々な案件には、多くの問題点を抱えていることが多いので、そこだけ切り取ればストレスフルですが、ここはいつだって解釈力です。
どのように問題点を解決するか、まるでパズルゲームのように組み立てることはとても面白いことです。行き詰って本当に困ったときに、誰かの言葉がヒントとなって、はっと霧が晴れたように、答えへ行き着いたときの感動といったらありません。昨日もまた、若いスタッフたちと仕事終わりに教育論をぶつけ合い、熱い訴えに聴き入ることで、次の取り組むべき仕事へのチャレンジ精神に火がついたので、とても気分よく、明くる日の今日と言う日を迎えています。
このような一定の危機意識を持ちながらも、すべてにおいて解決こそが第一で、この解決こそが、たのしいと思えるメンタリティーはとても貴重です。本当に自画自賛で恐縮してしまいますが、ここにこそ、私自身が教育をする価値があると信じています。私はこの教育という業界において、いかにして旧態依然たる「勉強は我慢」「勉強は忍耐」というネガティブ思考を排除するかが、最大の目的です。
教育の場は、極彩色でかたどられた希望あふれる世界であって、むき出しのコンクリートで出来上がった収容所や刑務所のような場所であってはなりません。
脳科学の分野でも、「人に強いられて学ぶ効果はとても低く、自らの意志をもって自発的に心地よく学ぶことで、学習効果を高められる」との研究報告がありますが、私もこの比較的新しいセオリーは正しいと考えています。何よりも、自分自身が主体的にたのしみを見出しながら行動することで、得られる仕事の効果の高さを知っているからです。
さて、先生と言う職を選んだ者ならば、ぜひとも、子供たちの手本となるべきではないでしょうか。「子供たちに目を輝かして学習に熱中してほしい」と望むべきであって、先生たちこそ、本気で学問の魅力を語れる人間にならなくてはなりません。学問を修めるというのは、アナクロニズム的には我慢大会へ参加するようなものでしょうが、本当は大いなる魅力がここには詰まっています。
──ということで、私自身が日頃、学問や教育について考え、本気になって、生徒達に何かを伝えるときの「思考の源」を列記します。
「我慢を強いるのではなく、しかりつけてただすのではなく(時には緊急避難としてしかりつける場合もありますが)、人間に備わる知的好奇心をいかにくすぐることができるか──」
「学問の力が、いかに世界観を広げることができるか──」
「ノートやファイリングによる学習の整理術が、いかに小気味よく学習作業を推進させることができるか──」
「今生き生きと思考をたのしめる人間になれば、将来社会に出たとき、どれほど思考力豊かな仕事人になれるか、何か困難にぶつかったときにいかにして培った学問が答えへ導いてくれるか──」
「学習仲間とともに競い合い、高め合うことで、どんなに大きなシナジー効果をもたらすか──」
「学習スケジュールの管理の中で、その日一日集中して見事予定をクリアしたときの、その達成感がいかに大きいものか──」
今の時代、情報インフラが整っているのですから、勤勉な教育者ならブログ等上手に利用し、いっそう世界へ向けて発信するべきではないでしょうか。人へ伝えようと努力しなければただの夢想家で終わってしまいます。やはり思いだけでは通じません。勇気を持って発言した者だけが、本当にこの世界をよりよく変えるのだと信じます。