[2012年10月12日]
人の死ほど悲しい出来事はありません。それが教育の場を発端とし、まだ若く未来があったはずの人を、むごくも死に導いたのなら、さらにそれが、尊い命を自らの手で絶つという壮絶な決定があったのなら、あまりに他人事とは済まされません。
やはり教育に生きる者として、ここ最近頻繁に報道されるいじめ自殺事件について、言及しなくてはなりません。
全国の先生たちに、ぜひ申し上げたいと思います。本当に我々は、先生と呼ばれるのにふさわしい人間であるのかどうか。もしも先生としての自負があるなら、何か事が起きたなら、子供たちを守り、自分の命を投げ出す覚悟を持たなくてはなりません。
たとえば、授業中に火災が発生したのなら、子供たち全員の命を守ることを第一とし、自分の命を二の次としなければなりません。おそらく突然の火災や大地震が来たときには、教育者に限らず、大人であれば、真っ先に幼い子供たちの安全を優先にすることは常識的考えのはずです。
少し教育の場を離れてイマジネーションを働かせてください。過去に発生した飛行機の墜落事故です。この大きな不幸に遭遇したとき、多くの大人が命を失い、奇跡的に何人かの子供の命が救われるケースがあります。なぜ子供の生存率が高いのかといえば、大人に比べ、子供は体が小さく、また体に柔軟性があるので、墜落の衝撃に耐えられるとの分析もあります。さらにもう一つの理由として、実は死を覚悟した大人たちが、身を挺して小さな子供の命だけを助けようと、自らを緩衝材とし包んで守るというケースもあるそうです。こうした大人の命を賭した自己犠牲の精神はとても崇高で、人間としての誇りの意味を教えられます。
ここで話を本論に移します。教室内のいじめ事件も同じではないでしょうか。自分の命を賭けてでも、弱い者を守るのが、強き大人の選択であるべきです。なおのこと教育者なら──と思います。
残念ながら日本の全国至るところで、きっと今日もどこかの学校で、起きています。その時、先生方は細心の注意を払っているのか、はなはだ疑問です。少なくとも私自身が子供時代、先生たちのリスク管理はとても薄く、いじめ事件は野放しでした。いじめによる死は身の周りにありませんでしたが、いじめを苦にし、登校拒否となる生徒がいたことは事実です。自分の体をていしてまで、いじめを解決するような先生はとんと出会ったことはありませんし、ここから類推するに、そんな先生の方が今なお珍しいのではないでしょうか。
もっと職業人として、先生という仕事に誇りを持ち、命を張って子供たちの生命を守らなくてはなりません。とても他人事とは言えないような教育現場周りの事件が起きているのですから、現場から改善の動きをとるべきです。もう子供ではないのですから、社会人たる者、その環境を創るのは自分たちの責務です。お上がその枠組みを与えてくれると、指をくわえて待っているようなことなどあってはいけません。その責任をすべて、総理大臣や文部科学大臣になすりつけてしまう大人であってはなりません。
ましてや、自分たちが教育者であるのなら、一般の大人よりも、崇高な教育的判断が求められます。それができないのなら、教育者などやめてしまうべきです。そうすると、日本全国の多くの教育者が、教育業から離脱することになるかもしれません。が、そんな風に悲観的に考えてしまうくらいに、日本の教育現場は抜本解決が求められているのではないでしょうか。
もちろん、教育にはその牽引する者の力量が必要で、気持ちだけでどうにもならないのも事実です。教育者自身が、教え子たち以上に、学びの精神を持ち、知恵と技術を手に入れ、健全な教育環境づくりに力を尽くすべきです。また一人では非力なので、自らの意志と自らの選択をもって、大きく教育改革の輪を広げていくという方法もあります。
何にしても、教育現場の周囲で尊い子供の命が失われ、さらには責任ある学校の先生が責任逃れを決め込むという事態にあって、現状維持という判断はないはずです。子供たちを守るために、またこの社会に次世代の担い手を輩出するために、教育者たちは猛省し、自ら立ち上がらなくてはなりません。