[2013年1月11日]
【本八幡教室情報 受験対策期間】
1月の入試対策学習会(中3・小6) いよいよスタート!
時として、世の中、本当にあってはならないことが起こります。本当に、本当に、それは、残念ながら、教育という場所で起きてしまいます。本来なら、人を育て、自立した一人の社会人として世に送り出す、最も重い責任を持つ崇高な場所こそが、教育現場です。
しかしながら、現実的には、人を育てる場所であるはずなのに、人を殺めてしまうことがあります。大阪市立桜宮高校の生徒(17)が体罰を受けた後に自殺した問題は、おそらく氷山の一角に過ぎないはずです。
あまりに愚劣な蛮行を、一部の教育者が行っているわけです。しかもそれは、今に始まったわけではなく、過去の体罰事件を紐解けば、ずっと野放しになっている現状があります。
そもそも、学校教育とは何なのか、教育とは何を与える場所なのか、きちんと理解及ばない人間を、教育の場に放しているのではないでしょうか。それは、子供たちが人生の師と慕うべき人間ではありません。厳しいことを申し上げれば、ただ教師と言う肩書を持っているだけの、無知蒙昧、あたかも獣のような存在です。
そして、それを、ずっと放置している教育現場に立つ人間たちは何を思い、何を信じて教育の世界に生きているのでしょうか。またそれをたばねる、教育委員会や文部科学省はなぜ、抜本解決を図ろうとしないのか、はなはだ疑問です。
少なくとも、心情として、教育現場で、人が死へ追い込まれる事態が起きたとき、何事もなかったかのように、見て見ぬふりをすることが、健全な教育でしょうか。事後の対応を見るに、皮肉を込めて申し上げますが、それは犯罪にも等しい愚かな事件が起きるのも納得せずにはいられません。
1月10日、橋下徹市長は、100人態勢で市長直轄の調査チームを作る方針を表明しましたが、市長が言うように、学校の現場や市教委にとてもではないですが、任せられません。体罰事件ひとつをとったとして、このレベルが、公教育の限界です。
そろそろ日本の公教育は変わる時期にきているではないでしょうか。極端な話、いったんゼロベースにして、教育者としてふさわしい人間を現場に配置させる必要があるのではないでしょうか。そのために望ましい教育制度とは何か模索し、一定の解決策を打ち出す時期は、まさに今なのではないでしょうか。
たとえば、PISA(OECDによる学習到達度調査)にて、好結果を残すフィンランドでは、かつて教育の大改革を進めました。この改革の鍵は、生徒同士を競わせるよりも、学校運営者、指導者を競わせることを重点化したことです。教員資格を、大卒から修士号取得へ引き上げ、さらには教員の契約を3〜5年の更新制とし、問題教師はすぐさま解雇できるようにしました。一方優秀な教師は、インセンティブを受けることができるようになり、また、学校にも教師にも、広い裁量権を持たせました。こうした改革によって、健全な競争原理が働くことになり、フィンランドの教育レベルが大きく飛躍する結果へとつながります。
さて、日本へ戻ります。公教育にはびこる一切の既得権益、自己都合、現状維持的思想を排除し、もっと優秀な人間を、指導者として取り入れる工夫がなくてはなりません。いったん大学を出た後に、社会に出て、まともに民間の競争原理の中で努力してきた人間が、その履歴に合わせたアドバンテージをもって、教職の世界へ入れる制度をとりいれるなどもっと工夫してはいかがでしょう。
とにかく、教育の現場は、人の才能をつぶし、人の命を奪う場所であってはなりません。まだ草の根の運動に近いですが、日本の自治体によっては、学習塾と提携し、公教育の充実を図ろうという動きもあります。
国は人です。人を創るのは教育です。社会を豊かにする一番の方法は、教育によって、「社会を創る担い手」のレベルを引き上げることに尽きます。だから今こそ、国が主体となって教育改革を推し進めるべきです。脱ゆとりの先にさらなる教育施策を打ち出すべきです。国が本気になって、公教育に、民間の教育ノウハウを取り入れ、民間レベルの競争原理を注入する時期ではないでしょうか。