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個別・少人数集団の塾「あっぷ指導会」
船堀校(あっぷ船堀)

[2013年2月3日]

塾・市川市本八幡の学習塾:与えられるから、「与える幸せ」へ

【本八幡教室情報 受験対策期間
2月の入試対策学習会(中3)
いよいよ新学年先取り学習スタート!
4月から新学年中学生コース開講!


 本日2月3日(日)、両国中へ受検応援に参りました。試験会場へ、我が子と歩む親御様たちの様子がとても印象的でした。それぞれの親子にはそれぞれの家族の歴史や、文化が根っこにあって、だからこそ強い絆をつくっているのでしょう。ふと親子の絆から連想するのが、幸せです。一体「本物の幸せ」とは何か、と問われる作文問題があったとして、何が正解なのでしょうか。

 あえて、ここは強く言いたいと思います。誤解を覚悟して、論を展開していきます。

 どう頑張ろうとも、子供には「本物の幸せ」などありません。虚構のような幸せとでも表現すればよいでしょうか。なぜなら、子供が得る幸せとは、せいぜい「与えられる幸せ」だからです。

 日々、彼らが生きていけるのは、親がいるからです。親の働きによって支払われる収入をよりどころとして、食べ物や衣服、住む家を与えられています。これを正しく表現するなら、生きているというよりは、「生かされている」ということです

 もしも内乱の激しい秩序を失った国に生まれたなら、そこに生みの親はもはや存在すらせず、そのまま誰からも食事を与えられることなく、餓死に至ることだってあります。この豊かな日本でも、かつて中世の頃、飢饉に見舞われ、親を失い、飢餓に苦しむ子供たちがたくさんいたことも付け加える必要があるでしょう。

 あまりに悲惨な境遇に生まれてきたのなら、たちまち人は生きていかれないという現実があります。しかし、初めから恵まれた環境に生まれた場合、短絡的にこれが常識化し、衣食住を与えられることが当然と受け止めがちです

 しばしここで比較論を用いてみましょう。戦乱の地、飢饉に苛まれる環境にいる、気の毒なみなしごと比較すれば、今の日本に生を受けた子供の多くは、いかに親に生かしてもらっているかがわかるはずです。

 さらに申し上げると、目の前の親ばかりに生かされているわけではありません。実はあまりに未熟で、社会という働きの場で、戦力にならない子供たちには、国策として、長期的に教育が与えられます。考えてみると当然なのですが、社会で自ら生きる大人たちの働きによって、いったんは税金として徴収され、ゆくゆくはそのお金の一部は学校教育へ回ります。公教育にとどまらず、私学もまた国の税金によって随分賄われています。したがって、子供たちは、眼の前にはいませんが、この国の不特定多数の大人たちによって、教育を与えられることで、まさに生かされていると言えるでしょう。

 ところが、ずっとピーターパンのようにいられるはずはありません。いつか大人になったとき、今度は自分の方が社会という枠組みを創る番です。責任をもって、成長し、世に出たのなら、弱き者たちへ幸せを与える側に回ります。必ず、人として生まれたのなら、未熟な子供時代があり、与えられる幸せを受けて生きるうちに、いっぱしの大人へと成長を遂げたのなら、その感謝の心を、次の世代へ注いでいくことになりますが、これが健全な社会の循環というものです。

 何だか、大人になるのって大変だな、とますますピーターパンシンドロームに溺れてしまうとしたら、それは間違っています。この理由は簡単です。

 子供よりもずっと大人の方が、幸せだからです

 所詮子供が受けるのは与えられる幸せのレベルであって、ここに主体的享受はありません。どうあがいたって、隷属的幸せしかないのです

 一方、大人になれば、すべて自己の責任によって、人へありったけの幸せを与えることができます。自らの主体的選択によって、子供たちの満面は笑みであふれ、生きる希望を抱かせることができたなら、これを上回る幸せってほかにあるでしょうか。

 きっと、大人にとって、子供が安心しきって幸せな寝顔を浮かべたときほど、至福の瞬間はないはずです。どんなに仕事で疲れ果てていようとも、自分が子へ幸せを与える様子を実感できることで、幸せという感動は、ふるふると心を震わせます。望むらくは、この感激を、いつの日か、今幸せな寝顔を浮かべている子が、譲り受けることです。

 この先の未来、この社会の子供たちが、健やかに育ち、「与えられる幸せ」を得る時期をきちんと終えることを何よりも望みます。そして、子供のときより育んだ優れた感性によって、「与える幸せ」を満喫できる大人になってほしい──と強く、強く願います。