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個別・少人数集団の塾「あっぷ指導会」
船堀校(あっぷ船堀)

[2013年4月30日]

市川市本八幡の進学塾:パラドックスと選択力

 人生というものは、すんなりと進めるとは限らず、むしろ時折、惑って立ち止まることの方が多いのかもしれません。だからこそ、目の前に難題が現れた時に、それを対処できる思考の力がものをいいます。

 とくに、選択するにも判断の難しいパラドックス(逆説、矛盾、ジレンマ)ともなると、悩みに悩んでついには立ち往生してしまうかもしれません。前日、本ブログにて、「グローバリズムの日本的ジレンマ」というヘッドラインで、人材教育におけるパラドックス論を展開しましたが、今回は、なかなか結論のつけづらい、それこそパラドックスそのものをテーマにしたいと思います。

 ということで、本論です。

 パラソックスの有名なものとして、ゼノンのパラドックス「アキレスと亀」もよく知られていますが、エピメニデスのパラドックスという話があります。紀元前600年ごろのギリシャが舞台ですが、ギリシャの七賢人のひとりエピメニデスは、こう言いました。

クレタ人はみなウソつきだ

 実はエピメニデス自身がクレタ人です。そうなると、クレタ人全員がウソつきなので、エピメニデス自身もウソつきということになり、「クレタ人はみなウソつきだ」という言葉自体がウソだといえます。だとしたら、クレタ人はみな正直だということになるのか──というと、しかし、クレタ人がみな正直になってしまったら、エピメニデスも正直者の一人ですから、彼の発言は、正しいということになり、クレタ人はやっぱりウソつきだということになります。

 はたまた、ということなら、エピメニデスも当然ウソつきの一人なので、彼の言葉は当てにならず、クレタ人はみな正直者ということになり──こんなことが延々と続き、堂々巡りです。結局、クレタ人はウソつきとも言い難く、正直者とも言い難いと妙な結論となりかねません。

 さて、もう少し論理学に寄せて説明を加えるなら、このエピメニデスの言葉自体に問題があります。「クレタ人はみなウソつきだ」として、「クレタ人はみなウソしか言わない」と言いきってしまうことに論理破綻が伴います。確かに、この世の中で全くウソをつかない人なんていないのですから、全員ウソつきと言ってよいのかもしれません。

 しかし、ウソつきと言われる人間だって、ずっとウソばかり言うわけではありません。むしろ、うそを言うことよりも、真実を語ることのほうがずっと多いはずです。エピメニデスだって、そもそも七賢人のうちの一人なのですから、どちらかというと、誠実で正直者のはずです。もちろん賢人だって人間なのですから、少々ウソをつくこともあるでしょうし、他人を傷つけないように善意のウソをつくことだってあるはずです。さもなければ、賢人などと尊ばれないはずです。

 そういうことで、「クレタ人はみなウソつきだ」という言葉が正しいとして、クレタ人が生まれてから死ぬまで、ウソしか言わないわけではないのですから、そのクレタ人の一人、エピメニデスが本当のことを言うことのほうが(ましてや賢人です)、よほど多いはずです。

 したがって、「クレタ人はみなウソつきだ」すなわち、「クレタ人はみなウソつきだが──年がら年中ウソばかり言うわけではない」と言葉を補えば、クレタ人の一人エピメニデスもまた、ウソつきの一人ですが、ずっとウソばかり言うわけではないので、この発言は正しいということになります。

 さて、すんなりと前進ばかりできないのが、人生とは言いながらも──だからこそ、悩みながらも惑いながらも、前へ進もうとする推進力を持つことが必要なのではないでしょうか。ここでの最悪の選択は、現実の苦難から逃れようと、選択しないことです。現状維持に甘んじることです。もちろん、選んだ方向が間違った道筋で、大きな失敗が伴うとしたって、その変化は、その人間に豊かな知恵を授けるはずです。この経験は、次のチャレンジの成功確率を一気に引き上げるのではないでしょうか