[2013年5月14日]
たとえば、ある人間が、ボールを一つ持っているとしましょう。それを上に投げたら、当然しばらくして落下しながら、自分の手元に戻ってきます。
そこで、もうひとつここに情報をくわえましょう。もしもその人がトラックの荷台に乗っていて、同じように真上へボールを投げます。そのトラックは一定のスピードでまっすぐ進んでいます。さて、ボールはどこに落ちるでしょうか。
選択肢は二択です。(1)投げた地点にそのまま落ちるのか、それとも、(2)トラックとともに移動した自分の手元に落ちるのか。
答えは、後者です。(2)です。確かにボールは自分の手元にあります。
考えてみてください。動いている電車のシートに座っているとして、上へ何かそれなりに質量のある物体を投げたら、必ず手元へ落ちます。これと同じことがトラックの荷台でも起こります。
さらにもっとよくよく考えてみましょう。冒頭にあるように、立ち止まっている状態で、ボールを真上に投げたら、ボールは手元に落ちるはずです。
何を言っているのかというと、地球の公転スピードです。地球は太陽の周囲を一定速度で回っていますが、そのスピード、一年で進む公転の距離9億4200万キロを、365日に24時間をかけたもので割ると、ざっと約時速10万キロ(約秒速30キロ)です。音速が約時速1200キロですから、どれほど速いことか。我々は静止した状態だと思い込んでいますが、実は地球と一緒にしかも猛スピードで動いています。
もしも手元に落下せず、投げた地点に落ちるとしたら、地球上で上へ投げた物体が、猛スピードで動く地球についていけず、たちまち消えてなくなる事件が頻発することでしょう。
しかし、地球の誕生以来、そのような事件は起きた試しがありません。必ず、地球上でボールを真上に投げると、地球はその人を乗せて途轍もないスピードで移動しているにもかかわらず、しっかりとその人間の手元に落ちるのです。
これを、ガリレイの相対性原理といいます。ガリレイはこの原理について、400年前に気がつきました。400年前と言うと、江戸時代の始まりの頃です。
ただここで申し上げたいのはこの先です。一定のスピードで進んでいるトラックでも、電車の中でも、真上にボールを投げた場合、その人間にとって、ボールはまっすぐ上へ移動し、まっすぐ落ちてきます。簡単な垂直運動をしていることになります。地球上に、我々がいて、真上にボールを投げると、まっすぐ落ちてくるボールの軌道と同じです。
ところが、もしも、トラックや電車の外に立っていることを考えてください。あるいは、地球の外側のロケットから、そのボールの軌道を見ましょう。どのように動いているでしょうか。ボールは投げた人間の手元から移動し、放物線を描きながら、頂点をつくり、そして、放物線の形を維持しながら、乗り物(地球)と一緒に移動した自分の手元に落ちます。
立ち位置によって、垂直運動するか、放物線を描くか、全く違う見え方になります。しかしながら、どちらも事実でありながら、視点を切り替えることによって、似ても似つかない異なる現象に見えます。これが物理現象です。
そして、この事実は何も物理現象にとどまりません。案外、自分が正しいと思い込んでいることが、視点を切り替えたときに、まったく違う姿に見える場合があります。とりわけ、こうした考え方は、グローバリズムの広がる社会の中ではとても大切です。日本人が正しいと思い込んでいることが、国際的に通用しない事実もあります。また他国で信じられている思想が世界で認められていないこともあります。さらにいえば、時代の変化に伴い、我々が正しいとする判断も変容します。
そうすると、常に自分の論が、正しいと考える一方で、視点を切り替え、間違っているのではないかと仮説を唱えるとしたら、より論理的です。いくつかの仮説を創り上げた上で細やかに分析する力が、これからの国際社会の中では求められていくとするのなら、教育の在り方ももっと次元を高めなければなりません。