[2013年5月26日]
主観と客観という言葉があります。情報を組み合わせ解釈する際、あるいは相手に情報を伝える際、たくみに主観、客観を駆使することで、その情報の全体像に奥行きを与えることができます。
言ってみれば、自分の目を固定カメラ化して判断するのが、主観であり、客観とは、いわゆる神の目(天の目)をイメージして、物事を外から、誰かの主観に偏らず、判断をつけることです。
しかし、これは便宜的に主観と客観を分けているのであって、神ならぬ身、完全な客観思考を実践することはできません。なぜなら、人間の目の前にある、ありとあらゆる物質は、目から情報を取り入れて、脳にその対象の像をつくって、目に留めているからです。また目に見えぬにおいや、音もまた、そのものの本質をとらえているのではなく、脳にその情報が入力されることで、においや音を識別しています。
そうすると、私たち人間がそのものの実像をとらえているという思いは錯覚であって、正確にいえば、虚像をそれらしく認識していることになります。
それでは、客観的判断などないのかといえば、それは違います。完全な客観思考は無理だとして、客観「的(それらしい、という意)」とする判断なら、すでに人類は採用し続けています。今でこそ、たとえば、数学や物理の世界の数字や数式といった記号の多くを正しいと判断するわけですが、人類の進化に従い、自らの脳を駆使し、そしてほかの人間たちの脳も経由することで、何が正しいのか、その精度を高めてきました。こうした検証の積み重ねが、まさしく真実への扉を開きます。
確実に人間とは切り離した客体の世界がそこにはあり、人間がこの世界に誕生する以前から、何かがそこには存在し、おそらく人間が滅んだ後も、何かがそこに存在します。ここに歴とした真実があり、人間たちの英知を結集させて、論証を重ねた末に、どうにかこうにかこの真実を突き詰めるのが、科学です。
やはり主観的思いつきや思い込みとは一線を画するのが、科学です。自分はこう思うから、こうだと言い切るのは、非科学的、非学問的考えです。
きっと人類がのこした科学の遺産はこれからも引き継がれ、さらにもっと研究を推進することで、より多くの真実を知ることになるはずです。ここに学問、科学の壮大なロマンがあります。