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個別・少人数集団の塾「あっぷ指導会」
船堀校(あっぷ船堀)

[2013年8月7日]

市川市本八幡の進学塾:人生とは論証

 今日は作文を人生に見立てます。簡単に言ってしまうと、現代文や英文は、一論点と一帰結点を主流として出来上がっています。

 もちろん、起承転結の構成や、頭括型、尾括型、双括型の構成分類や、5W1H「いつ(When)、どこで(Where)、だれが(Who)、なにを(What)、なぜ(Why)、どのように(How)」など、学校教育で教わることがあるでしょう。

 しかし、そう複雑なことではありません。文章とは、人に何かを伝えたいから書き綴るわけであって、形式的な並びや表現がどうであれ、どんな問題を訴えているか、そして、その人は、どのような答えを持っているのか、伝えているにすぎません。

 つまり、シンプルにすると、一論点、一帰結点に集約できます。一つの論点をかかげ、その答えを証明しなければいけないので、定義づけを明確にしつつ、具体例や引用などを駆使し、論証していくことになります。言わずもがな、論証の先には、一帰結点が待ち受けています。

 しごく当たり前のことですが、言語の価値とは、自分と他人との情報の共有です。いかにわかりやすく自分の考えを相手に伝えられるか、あるいはその逆で、相手の考えをスムーズに読み取るかが、言語の特長的機能のはずです。したがって、本来それほど難しいものではありません。

 しかしながら、難しいという先入観が、思考を硬直させるので、読む時の基本姿勢として、難しがらず、それほど難解なことが書いているわけがないと思っておくとよいかもしれません。

 多くの場合、国語や英語の指導者が、複雑に教え過ぎてしまうことが、文章嫌いを促しているのかもしれません。かえって情報過多の複雑は伝えれば伝えるほど、脳を混乱に陥れます。心理学的にいうと、情報量があまりに多いと、人間は現状維持ベースを決め込み、判断を止めてしまうことになります。

 このように、複雑解説は、脳が整理できないまま読み進めることとなり、ひいては、残念ながら、国語や英語の読み取り能力が劣化するのではないでしょうか。

 さて、文章をシンプルに判断すると、一論点、一帰結点という幹で出来上がっており、すなわり、文書とは、一論点から一帰結点へつなげる論証とも言えます。

 人生もまた、論証です。自分の未来像があって、それを論証するために、毎日があります。もしも今、未来像なんて考えてもいないのなら、論点も帰結もない、破綻した作文のようなものです。そんな作文、魅力も面白みもありません。

 言うに及ばず、そうなりたいと願う未来像がその通りならないこともあるでしょう。むしろうまくゴールへたどりつけないことのほうが多いでしょうし、また情報量が増え、知恵がつくことで、未来像への方向転換をはかるという自己選択は、何度も起きるでしょう。そのときに、また新たに、人生と言う作文を創りなおせばよいだけです。

 新たな未来像の一点をつくり、それを論証するために、再スタートしていくことになります。そうやって、何度も人生を書き直していくことで、優れた人生の論文、別言すれば、優れた人生の物語が壮大に創り上げられるのではないでしょうか。