パソコン版を見る

個別・少人数集団の塾「あっぷ指導会」
船堀校(あっぷ船堀)

[2013年8月19日]

市川市本八幡の進学塾:右脳と左脳による選択スキル

 今何を選択するかによって、どんな一日になるか、決まります。一年たったとき、十年たったとき、どちらの道を決めたかによって、同じ人間でありながら、全く違う人生を歩みます。

 たとえば、学生なら、どうも数学の理解が思うようにいかないとき、「嫌いだ」という感情を強調し、ばっさり数学を切り捨てるかもしれません。

 一方、数学にかかわらず、歴史でも英語でも、どの科目でも、「嫌いだ」という選択など、そもそも選択肢のなかにはなく、「どうしたら、それに夢中になれるか」「どうしたらその魅力を知ることができるか」と殊更、建設的解決を図ろうとするなら、おそらく、その成長は突き抜けていくはずです。

 これは知能指数の問題ではなく、人生の岐路に立ったときの選択の問題です。常に我々は選択の場面に立たされ、どのように選択したかによって、いかようにも人生の模様を変えていきます。この一つ一つの選択によって、多様に描かれていく人生の様こそ、人生の醍醐味かもしれません。

 とはいえ、自分の人生でありながら、自分がその主人公だということに気づきもしないとしたなら、いつか大人になっても、ずっと精神は子供のままで、他の大人たちや社会に依存していきます。大人たちの一人一人がこの雄大な社会をつくっている自負や自覚、責任など存在することも知らず、ただただ、いつまでたってもひな鳥のように、口を開ければ、何かがもたらされるという幻想の中に生きているのかもしれません。

 こんな隷属的な生き方は、あまりに醜い人生の物語ですが、このことは自戒をもって、自分自身にも突きつけつつ、あえて厳しいことを言います。もしかしたら、今日、あれが面倒、これは嫌だ、それはあいつのせいだ、と決め込んでいないでしょうか。いつまでたっても、自分に突きつけるべき論点を都合よく捻じ曲げて、何かの責任をすぐさま他に求める習慣がついていないでしょうか。

 何しろ、ご都合主義は、その場しのぎの自分の精神安定を保つ最良の手段となるでしょうが、実はこれは、最悪の薬物です。そのときは、精神安定を得られたとしても、根本治癒ではないので、いつか取り返しのつかない副作用が待っています。未発達と言う人生の大損失は、あまりに大きな代償です。

 別段難解な論を展開しているわけではなく、まさに今日、何を選択するかなんて──実は、それほど難しいことではありません。なぜなら、自分自身にとって、一体何が正しい選択なのか、本当はよく知っているからです

 誰もが、反面では邪悪な心を持ちながらも、直観的正義を心に備えています。どんな人でも、寧ろピュアな子供の方が、ヒーロー映画の主人公に感情移入できるのは、決して論理が働いているからではなく、豊かな感性が、「ヒーローが選択する正義」に対して、共感するからです。

 ただし、もっと脳の機能を理解していた方が、よりスムーズに正しい選択ができるかもしれません。人には、いわゆる右脳と左脳があります。同じ人間でありながら、全く違う二つの人格を持つようなものです。

 もう少し補足しましょう。右脳は、「現在の脳」と呼ばれ、とても感情的です。瞬間的にインスピレーションを受け、豊かにイマジネーションを描き、ひらめきを誘発させるのは、この脳の特長です。何が正義であるか、直観的にイメージできる面もありますが、ただし、やられたらやり返したいとか、衝動的に相手を傷つけたい、他人を貶め、自己愛を膨張させたいという邪悪も持ち合わせています

 反対に左脳は冷静であり、ロジカルです。「過去と未来の脳」といわれ、過去の経験値と論理的思考をたくみに使い、未来において、何が正しいか、選択できるのが、制御装置の左脳です。

 きわめて天才的脳の右脳を操るのが、左脳の働きであって、右脳の正義が機能していたら、それを促すためアクセルペダルを踏み切ります。しかし、右脳が邪悪へ向かって暴走するなら、やはり左脳がブレーキを踏むことができます。

 さて、今日何を選択するでしょう。これが嫌だからばっさり切り捨てるか、それとも、どうしたら解決できるか、人生の美学をもって、建設的解決に夢中になるか。もしも今日こそ意図的に、右脳と左脳を働かせたなら、昨日の選択とは別格の選択ができるかもしれません。

 何にしても、ぶざまにするか、美しく整えるか──自分の人生物語を描くのは、まさに自分の選択です