[2013年11月9日]
もしも、旅行に出かけるとしましょう。ハワイへ行くと決めたら、飛行機に乗ることを考えるはずです。仮にも、飛行機に乗ってから、それじゃ、ハワイに行こうという人はいるでしょうか。
何となくぶらりとあてどなく、鈍行列車に乗って旅するのも一興でしょうが、多くの場合、目的地を決めてから、どの方法で移動しようか判断するのが常識です。
しかし、教育の場とは甚だ不可思議です。学びの先にどこへ到着するのか、その目的地も決めず、子供たちの多くが、漠然と学びます。まさに、とりあえず、飛行機に乗ってみて、それから目的地を考えようと言う論と同じではないでしょうか。
へたをすると、大人も大人で、子供たちになぜ勉強するのか、説明に窮してしまうことがあります。その挙句には、数学の関数なんて、世の中に出て使うことはないから、四則計算程度やっておけばよいという人がいるかもしれません。
大変残念なことに、なぜ子供のうちに勉強するのか、ほとんど教育現場で説明がなされることはありません。やっぱりこれって、変です。小学一年生のスタート時から、しっかりと学ぶ意味を教えるのが道理ではないでしょうか。この学んだ先に、一体どこへ行き着くのか、イマジネーションを持たせてあげるべきです。
そもそもなぜ、子供たちが学ぶのかというと、今すぐ働けるだけのレベルでないからです。根本を言えば、私たちの社会が豊かであるということは、そこにたくさんの人間がいて、それぞれの役割に応じて、分業しているからです。たとえば、農作物をつくる人もいれば、トラックで商品を運ぶ人もいます。新しい携帯電話を開発する人もいるかもしれません。
様々な職種があって、それぞれが、責任ある大人として一生懸命仕事をするから、この社会は成り立ちます。しっかりと働ける人間が働くことで、賃金を得て、食品や生活用品を買います。こうして、物の売り買いに欠かせないお金が巡り、またみなで税金を納める結果、この社会は機能します。
ただし、子供は足手まといとなるので、この社会の中で責任ある役割を与えられていません。しかし、賢い子供なら気づくことでしょう。働きもしないのに、なぜ子供は食べていけるのかと。ぱあっと、魔法のようにお金が現れることなんてありません。言うまでもなく、最も身近な大人である親が汗水流して働いてお金を得ているので、食にありつけます。
そうだとしたら、子供たちは自分で生きているのではなく、生かされているということになります。もしも大人が何も与えてくれなかったなら、アフリカの貧しい国に生まれた子供と同じように、飢餓に苦しんでも不思議ではありません。
もっというと、今すぐ働ける力がないからこそ、学校教育を受けているのであって、ここでも、学校の施設を運営するのに、たくさんの費用がかかります。ところがやはり、子供たちは働いていないのに、学校教育の恩恵を受けています。実は、会ったこともない大人たちが働いて税金を納めてくれる結果、この税金を元手として義務教育は維持され、子供たちは教育を受ける権利を行使できているのです。
すべては、大人たちからの投資です。子供たちが、賢くなって、いつか社会の担い手になることを期待して、大人たちは、子供たちに援助しています。なぜなら、「大人たちにも子供時代があって、その時代に、支えられて、ようやく責任ある大人へと成長できたこと」をよく知っているからです。
ということで、今歯がゆくも子供の時期にあるなら、当然、よく学び、よく育たなければなりません。そしてゆくゆくは、責任ある大人となったとき、子供時代に受けていた恩を、次の世代の子供たちに捧げていくこととなります。
ここに美しく整えられた社会のシステムがあります。強い大人たちが弱い子供たちを支えることで成り立つこの清らかな社会を守るためにも、子供たちはいつの日か働けるように、一生懸命学ぶ必要があります。
ぜひとも、人によって生かされ、与えられる立場から、自ら生き、弱い者へ与えることのできる強い大人へと成長してください。ここが、学んだ先に到着すべき目的地です。この目的地がどんな場所か、豊かにイマジネーションを働かせた上で、大いに学ぶべきです。
さあ、子供の皆様、学びの意味を知ったのなら、存分に知的好奇心を駆り立てて、本気で学んではいかがでしょう。