[2013年11月13日]
子供たちの世界を見つめてみると、日々よくもまぁ、こんなにとあきれるほどに、もめごとばかりです。
ただ、これをよいようにとれば、学校のクラスの仲間たちの間で、コミュニケーションが上手にはかれないからこそ、この失敗が大いなる学びにつながります。いつか彼らが社会へ出たときに、子供時代に自分が傷つき、人を傷つけながら、学んだ「対人対応技術」が大いに役に立つものです。
たとえば、子供たちの世界の光景でよくあるのは、悪口合戦かもしれません。とにかく精神的に幼ければ幼いほど、人のあら探しに一所懸命になりがちではないでしょうか。
「だれだれちゃんが、あんなことしている。こんなことしている」などと告げ口を言いたがります。
しかし、彼ら自身がきちんと認識していないことを、心理学の観点から分析するなら、ひとつは過剰な防衛本能について説明する必要があるでしょう。誰かを集団で責めることで、自分に批判の矛先が向かわないように、無意識的判断が働いている場合があります。誰か1人を標的とするいじめの図式としてよくある典型例ともいえます。
また、もう一つは、未開発の可能性です。他人の欠点ばかりに気持ちが向くとき、実は、自分で果たすべき何かがあるのかもしれません。
「だれだれちゃんが、計算練習をさぼっている。だれだれちゃんが、宿題を丸写しにしている」などと人のマイナスを見つけたがる子に限って、自分自身が取り組むべき勉強を怠っているものです。
明らかに、他人に干渉することで、自分の未知の可能性を切り開くことから逃げてしまっています。つまり、他人にばかり気持ちが向かう人は、現実逃避型の性格が強いことになります。
さらにいうと、集団の中に身を置くと、「空気が読めない」という言葉がちらほら聞こえてくるかもしれません。「これを言うと、皆に嫌われるから言わないようにしよう。このときは、場の雰囲気を乱さないように、みんなと、発言を合わせよう」などと心理が働きます。個人より、集団が優先される、日本人特有の考え方が、この、「空気を読む」「空気が読めない」に集約されているようにも思われます。
さて、子供たちの集団生活における問題ばかり、挙げてきましたが、もちろん重要なのは、こうした問題について、どのように解決するのかということです。特にここからは、3点目の「空気を読む」「空気が読めない」に焦点を絞りましょう。びくびく人の顔色をうかがう人間関係の問題についてです。
端的に申し上げるなら、この解決の鍵は、アイデンティティと自己肯定です。
なかなか日本人には、聞きなれない言葉かもしれませんが、辞書を引くと、「アイデンティティ=自己同一性(主体性)、帰属意識」と書いてあります。もっと簡単にアイデンティティを説明するなら、一体自分が何者であるかということです。
もっと具体的に、一体自分自身がどんな人間なのかについて、判断材料を挙げてみましょう。自分の長所、短所は何か。自分が夢中になっているものは何か。自分を守ってくれる家族や友人たちはどんな愛すべき人たちか。自分が身を置くコミュニティ(共同体)や国家をどれほど愛しているか。あるいは自分が生きてきた歴史にどんな物語があって、その思い出の中で、何が自分の生きる支えになっているか。そして、過去の一つ一つの生きた証が、今の自分とどのようにつながり、自分が心から希求するビジョン(未来像)へどう結びついているか。
別言すれば、アイデンティティとは、ゆるぎない自分の精神の根がどこに下ろされているか、自分自身でよく理解した状態であり、そして生きる上で、絶対に見失ってはいけない道しるべともいえます。
昔から日本では、個人よりも、集団や環境が重んじられるのに対して、欧米では、伝統的に集団よりも個人を出発点として物事を判断します。和を尊ぶのはどちらで、自己主張が強いのはどちらかを少々想像してみると、日本と欧米の思想は、まるっきり正反対です。
そうすると、欧米の人々の思想には、アイデンティティが育まれていることになりますが、逆に彼らには、「空気を読む」という感性自体、備わっていません。また日本人の場合、アイデンティティやまたそれに代わる語が日常語として使われていないので、個人の精神の拠り所を失っていることとなり、そのため、個を殺し、集団の空気のようなものに縛られがちです。何とも厳しく言うのなら、アイデンティティクライシス(自己喪失)などという言葉がありますが、これに当てはまるのが、日本人気質であるとも解釈がつきます。
もはや、島国根性が通じないグローバル化の時代においては、もっと個が強くならなければなりませんし、さぞや、アイデンティティクライシス(自己喪失)を嘆いたって仕方ありません。そもそも日本人の中にあっても、実は魅力的な人間は、個性が豊かで、自分に確固としたアイデンティティのような思想を持っているものです。歴史上の人物では、ことごとく古いしきたりを破壊した織田信長がそうですし、日本で初めて株式会社「亀山社中」を立ち上げた坂本龍馬もまたそうでしょう。
きっと世の中の常識を変えてしまうような偉人なら、びくびく周囲の反応ばかりに気をとられることはないでしょう。必死にみんなに話を合わせて生きることもないでしょう。いちいち、みんなの顔色などお構いなく、空気を読まず、正しいことを貫くはずです。確固たる自分と言うものを持ち、このアイデンティティが自分の精神を守り、何事にも、自己を肯定する力が源となり、正しいことを正しいままに突き進むでしょう。こうした「自分で自分を認める自己肯定の力」があれば、同じように他人を肯定する力も持つはずです。ひいては、向かい合う他人の、それこそアイデンティティに関心を抱き、他人との関係を尊重できることでしょう。このような他人を思いやる優しさは、まさしく純度100%です。その優しさの源をたどれば、アイデンティティを確立し、本物の自己肯定を知る人からにじみ出る真心でできているのではないでしょうか。
何より人間の本質を説くのなら、こんなことは日本も欧米もなく、自分というかけがえのない存在を存分に認め、そういう貴重な個に対して、偽りなく直視できることが、本物の自己肯定なのでしょう。
やはり、反対に自分がどんな人間かいい加減にとらえてしまうなら、きっと自分でありながら、自分を認められない弱さから、深く相手のふところに入れず、表面的で浅い付き合いとなるのがオチでしょう。せいぜいその場の空気を取り繕う程度で、空気を読んで、穏便に落ち着きどころを見つけようと言うことになります。
ましてや、偽りの自己肯定に走るのも問題です。自分が何者であるか、しっかりした精神の根を下ろすことなく、ただ安直に自分を守るために、自己を肯定し、その分、他人をおとしめるとしたら、それは、愚かな偽物の自己肯定です。
もちろん、全員が全員、完璧なアイデンティティの確立を果たし、本物の自己肯定を貫くことで、他人を認める優しさを全面に押し出すなど、はなはだ難しいことに違いありません。すべての人が幸せになる社会など、所詮はユートピア、すなわち想像上の理想的な社会であって、完璧な世界など存在しないことも知っておく必要があるでしょう。
ただ、すべての人が幸せになる社会の到達など不可能であったとしても、一人でも、自分を信じ、本物の自己肯定を備えることによって、人に優しくなることができるなら、望ましいことです。少なくとも、いちいち顔色をうかがう人間関係なんて、もうまっぴらごめんです。一人一人が一歩ずつであっても、しかし着実に自分らしさでつながり合う社会へ向かうとしたら、どんなに優れたことでしょう。