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加藤学習塾
【岡山県岡山市の進学塾】

[2018年4月17日]

『ナンバースクール』って知ってますか?

『ナンバースクール』って知ってますか?

全国に39校あった旧制高等学校のうち、明治期に創設された第一高等学校から第八高等学校のことです。これらの学校は後発の学校に先んじて政官界に多くのエリートを送り込んだため、他と区別するため特に「ナンバースクール」と呼ばれました。当時六高生といえば、中四国では「選ばれし者」だったわけです。一高は東大、二高は東北大、三高は京大、四高は金沢大学、五高は熊本大学、七高は鹿児島大学、八高は名古屋大学の前身です。そしてわれらが岡山大学の前身が六高こと旧制第六高等学校ということになっているのですが…。少し寄り道します。ときどき、朝日高校の前身が六高だと勘違いされている方がおられるようですが、朝日高校は六高の跡地に建っているだけで血縁関係はありません。藩校の流れをくむ旧制岡山中学校が昭和23年の学制改革で岡山第一高等学校となります。これが昭和24年、岡山第二女子高等学校と統合される形で現在の朝日高校が生まれたのです。


岡大医学部だけなぜ鹿田町?
岡大医学部は京都大学と兄弟

岡大医学部のルーツは明治4年に設置された岡山藩医学館です。これが明治27年、第三高等学校医学部になります。三高は京大の前身ですから、岡大医学部と京都大学は兄弟かいとこといったところでしょうか。岡山大学は「津島キャンパスは六高、鹿田キャンパスは三高の流れ」をくんでいたわけです。

内山下小学校で遊んでいた妖怪

余談ですが、第三高等学校医学部は明治34年4月三高から分離し、岡山医学専門学校として独立します。鹿田町に移築されたのは大正6年でした。さて、この学校に佐藤松助という教授がいました。山口の人です。松助には佐藤信介という甥がありました。信介少年は岡山の松助を頼って内山下小学校に入学し、卒業後は旧制岡山中学に進学します。内山下小学校はすでに廃校になっていますが、建物はまだ残っています。岡山市民会館の向かいです。岡山中学は現在の朝日高校の前身ですが、信介少年は中学を卒業することができませんでした。学費・生活費一切の面倒をみてくれていた叔父松助が肺炎のため急逝したからです。少年は山口に戻り、婿養子だった父親の実家・岸家の養子になりました。この少年こそ、第56代・第57代内閣総理大臣をつとめ「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介です。長女洋子は当時毎日新聞の記者だった安倍晋太郎と結婚、次男として生まれたのが安倍晋三です。