[2018年4月17日]
歴史コラム
秦は始皇帝からわずか三代十六年で漢の高祖によって滅ぼされました。横道にそれますが、秦というのは当時の中国の中原の連中からは夷狄(異民族)をもって目されていました。さて、滅亡した秦王朝の貴族の一部が朝鮮半島に逃げて建てたのが秦韓(辰韓)です。「魏志東夷伝」には秦韓について、「古の亡人、秦の役を避けて来って韓国に適(いた)る」と書かれています。その秦韓民族が何世紀かをへてはるばる日本にやってきました。「古事記」「応神紀」にも、弓月君という朝鮮貴族が二十県の民をひきいて日本に帰化したことが記されています。その数二万人たらず。彼らは山城の地に定住しました。当時の山城は草獣の走る一望の荒野でした。日本で彼らは秦氏(はたうじ)と呼ばれました。その秦氏の国の国都が現在の京都郊外、京福電鉄嵐山線沿線の太秦(うづまさ)です。秦氏はたちまち強大になりました。なぜなら彼らは産業を持っていたからです。その特殊技能はハタオリであり、織物をふんだんに生産することによって大和朝廷の用をつとめたわけです。当時の日本人たちが秦(しん)を秦(はた)とよんだことだけでも、秦氏の日本の未開社会における位置がわかるでしょう。今日伝わる「西陣織」もルーツはそこにあるのです。
(司馬遼太郎「日本のかたち」改編)