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加藤学習塾
【岡山県岡山市の進学塾】

[2021年10月2日]

山城の天守

高梁の地名の由来
 高梁市は訪れたことがありますが、高梁川が見事に天然の要害になっているように思えました。高梁の町は細長く、珍しい城下町を見ることが出来ました。残念ながら、備中松山城へは行けなかったものの、また時間があれば行ってみたいですね。この町の地名の由来は、他の都市とは違い、なかなか面白いです…。
高梁市は、元は備中松山と呼ばれ、備中国の中心都市として栄えてきました。
 
 松山が現在の高梁市に改められたのは、明治時代のことです。当時の備中松山藩は勤王・倒幕の思想に反対する立場で、江戸幕府の存続を支持していました。 その為に朝敵のままの名称を存続させる事が出来なくなってし まいました。

 そこで改めたのが『高梁』です。 これは新しい地名ではなく、旧来の地名に戻したも のです。 14世紀頃に高橋又四郎居城の際に、城主と城の名前が同じになってしまった為に、城と地名を改めたのが松山です。高梁という地名は吉備高原の端にある地形から、高い端…となり、高梁の地名が生まれたといわれています。

 その松山城は明治の廃城令により、本来は取り壊される筈だったのですが、山頂に残っている為に費用がかさむので、平地にあった施設のみを取り壊し、他は取り壊したと いう嘘の報告のみに留まり、取り壊される事はありませんでした。その後、荒れ放題になっていた備中松山城は1929年より松山城保存会の手により11年もの月日を費やし、見事に蘇りました。
 嘘の報告という運命のいたずらによってその命を救われた備中松山城は現在、日本では天守閣が現存する唯一の山城として城マニアの人気を集めています。
ではまた。