[2011年9月4日]
コラム? 学問の神:菅原(すがわら)道真(みちざね) 〜つづき
<菅原道真公はどんな人だったか>〜つづき
ところで、道真が受けた国家試験「方略試(ほうりゃくし)」は、どんなテストだったのでしょう。
それは、哲学と文化に関する高度な問題を論文形式で答えるもので、
?氏族を明らかにせよ、
?地震(ないふる)を弁ぜよ
の2問だったそうです。
簡潔な質問にあらゆる日本の歴史と文化を背景に、哲学的に答えないと合格しない課題でした。つまり、道真が秀才だったといっても、それは主に歴史や文学などの文系の知識に優れていたのであって、数学や理科なら今の中学生や高校生の方がよく知っているはずなのです。決して、アインシュタインや野口英世のような秀才ではないのです。しかし、当時の勉強の最高を極めたことには変わりません。
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<菅原道真公が学問の神になった一因は、その政治力と権力にあるようです>
学者の家に育ち、最高の教育を受けた道真は、蔵人頭(くろうどのとう)・大学頭(のかみ)・参議(さんぎ)・民部(みぶ)卿(きょう)などを兼任し、最終的には右大臣、右大将の地位に着き、従(じゅう)二位の身分にまでなりました。。蔵人頭(くろうどのとう)とは、天皇の秘書官長としての相談役。大学頭(のかみ)とは、大学寮の長官で今の東京大学総長に当る地位。参議(さんぎ)とは、広義の国務大臣。民部(みぶ)卿(きょう)とは、今の大蔵大臣のこと。右大臣とは、日本政府の政治家の最高の地位。右大将とは、日本政府の軍事指揮権を持つ地位です。
つまり道真は、今の内閣総理大臣になったのです。そして、平田耿二著「消された政治家菅原道真」によると、崩れかけていた律令制の政治方法を立て直して、後に「延喜(えんぎ)の治(ち)」と呼ばれる大規模な国政の転換を導いたのは真の立役者が道真であったようなのです。
この「崩れかけていた律令制の政治」を理解するのは大変なので、税に関する1例だけを挙げてみます。
この頃の農民は、一定の広さの口分田を国から支給され、その代わり租庸調(そようちょう)などの税を払い、死んだら口分田を国に返すシステムになっていました。そしてこの税は、どれも男子のみに課せられていました。(これらは、中学の歴史で学んでいる内容です)
しかし道真の頃には、農民の逃亡・戸籍のごまかしなどによって税をとるべき男子が激減していたのです。
官符(かんぷ)(政府が下した行政文章)には、「ほとんどの戸が男1人に女10人の比率であり、中にはまったく男のいない戸もある」と書かれているものもあるほどでした。
また、死亡者の口分田を政府に返さず、身内がそのまま耕作していたりしていたのです。
この頃の政府は、今と同じく深刻な財政難をかかえて行き詰(づま)っていたのです。この深刻な財政難をどうにもできない現在の日本政府のような状態のときに、民主党と自民党が権力争いばかりして国をダメにしているように、平安時代の当時は、藤原氏が結婚によって高い地位を獲得したり、天皇が藤原氏の術策で廃されたりして、関白の地位を最高に政治を牛耳っていたのです。
ここに登場したのが、宇多天皇と道真でした。
宇多天皇は、藤原氏を遠ざけ実力のある道真だけを頼りにして政治をすすめ、国政改革をしてゆこうとしたのです。実際道真は、たくさんの根本的な改革を進めてゆきました。
この当時奴隷であった公(く)奴婢(ぬひ)・私(し)奴婢(ぬひ)は、家庭も財産も持つ事が許されず、物として売買されていましたが、これらの奴隷を解放して家庭が持て口分田がもらえるようにして、これらからも税をとるようにしたのも道真でした。
道真は、明治維新よりも前に、少しだけ身分制度を改善していたのでした。しかし、このような奴隷が当たり前という時代の感覚は今の時代を生きる私たちには、よく分からない考え方ですね。
子供たちが、外見で人を区別したり、批判したがる背景には、こんな歴史の厚みがあるのかもしれません。
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<菅原道真公が学問の神になったのは、死後の異変にありました>
誰もが菅原道真公を神として崇めるようになった理由の面白いところは、道真の死後にありました。 901年1月25日、突如57歳の道真は大宰府に左遷(させん)(罰として島流しのような仕事に就かされること)されます。「東風(こち)吹かば、匂いおこせよ 梅の花 主人(あるじ)なしとて 春を忘るるな」という短歌は、この京都から大宰府に行く途中で詠んだ歌です。
大宰府の地で、連れて行った幼い子供を亡くし、ひたすら念仏と読経(どきょう)に専心した道真は、903年2月25日、59歳で死にました。
そして死後京都を中心に悪いことが続々と起こってくるのです。
908年、参議の藤原菅根が死去
909年、旱魃(かんばつ)から疫病(えきびょう)が蔓延(まんえん)し、道真を左遷(させん)した張本人の藤原時平が39歳の若さで死去
また京にでは、洪水多発、隕石(いんせき)が大音響とともに落下してきました。925年、天然痘(てんねんとう)が蔓延、皇太子慶頼(よしより)王が5歳で死去(母は時平の娘)
そしていよいよクライマックスです。
下記の写真は、前回も載せたクライマックスのシーンで、天神様の境内によく掛けてある絵です。
930年、雨が降らない日々が続くので、諸卿(政府の政治家)が殿上で請雨(雨乞いの祈願祭)の件で会議していたら、にわかに清涼殿・西南の第一柱に雷(かみなり)が落ちました。この雷(かみなり)で大納言の藤原清貫(きよつら)と右中弁の平希世(まれよ)と右兵衛佐の美努(みぬの)忠包(ただかね)死去。醍醐天皇は、この衝撃から病床につき、咳病(せきびょう)を患(わずら)うことになり、930年9月に、醍醐天皇46歳で死去します。
923年醍醐(だいご)天皇は、道真の官位をもとの右大臣に戻し、正二位の身分を追贈し、道真の左遷(させん)の命令を破棄するのです。さらに
993年、道真に正一位、左大臣と太政大臣を贈り天皇に次ぐ身分としたのです。
こうして社会的に道真の罪は晴れ、天神としての信仰が広まっていくのです。
江戸時代の寺小屋教育では、天神菅原道真公がどの教室にも祭られ、まずその日の初めに、天神に祈りを捧げてから授業が始まっていました。
今でも、空手や剣道の道場に「武の神 鹿島明神」が祭られ、この神様にあいさつをして練習をはじめるのと同じように。
さて、今年の受験生は、どこの神社に、受験合格祈願に行きたいですか?
おわり