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加藤学習塾
【岡山県岡山市の進学塾】

[2012年9月12日]

手のかからない子が犠牲にならない学校・塾に

手のかからない子が犠牲にならない学校・塾に

◆目立たない生徒の苦悩・消耗

以前「鈴木先生」というテレビドラマがありました。同名の漫画(武富健治 作)を原作としたもので、主人公は中学校の教師です。内容的に生々しい部分もあり、見ていて苦しく感じたことも多かったのですが、そんな中で1つ、共感する部分が多く、深く考えさせられもした、印象深い話がありました。
 その話の中心人物は一人の女子中学生です。成績もまずまずで、行動にもとりたてて目立つところのない、普通の生徒という評価で、鈴木先生は目立つ問題児に気をとらわれて、その女生徒の苦悩・摩耗を見落としていたのです。(後に鈴木先生は、彼女の死後、日記からそのことを痛感させられます。)
やがて、彼女の言動はとても美しくなります。しかしそれは、前向きな美しさではなく、「どうせ変わらないんだ」という学校生活に『あきらめた』美しさなのです。最終的に彼女は、高校生になってまもなく亡くなります。自殺などではなく突然死なのですが、電池が消耗して豆電球の明かりが消えるように、世の中にあきらめ生きるエネルギーが消えていった死であるように私には思えます。

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◆落ち着かない学校、塾にもその影響が

 当塾では今年度から中学受験コースを設けました。数年前にも設けたことがあるのですが、その時には希望者も少なく、結局廃止した経緯があります。しかし今年度は、私個人が想像していた以上の希望者があります。そしてその背景にはおそらく、一般の公立中学校が落ち着いた雰囲気になく、授業が十分にできないという現実があり、児童本人や、それ以上に保護者の方が、公立の中高一貫校や私立の中学校で、落ち着いた学習・学校生活を送りたい・送らせたいという思いがあるのだと思います。
 中学校が落ち着いていないであろうということは、塾で授業をしていても感じます。教室・学年によっては、ややもすると私語など学習以外のことが入り、注意をしなければならない場面がしばしばあります。授業中は学習するという当たり前のことが見失われ、落ち着かない授業が生徒達にとっての常識となり、自分達のそのあやまった常識を塾にも持ち込んでいるのです。

 そうした中で、最も犠牲になっているのが、おとなしく、一見目立たない、授業をまじめに受けようとする生徒だと、私は思います。例えて言えば、100の時間やエネルギーを、10人いれば10ずつ使うべきところが、問題を起こす生徒のためにその多くが費やされ、手のかからない生徒に対してはそれが5となり3となっている、それが現状です。
 そしてそれは、目立つ問題ばかりでなく、ちょっとしたことにも言えます。無断欠席や安易な遅刻があれば電話をし、その間授業はストップします。テキストを忘れればコピーをし、その間他の生徒を待たせています…そうした積み重ねが結局、実質的にも心理的にも、大きなマイナスを生み出しています。

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◆手のかからない生徒こそ活き活きとできる学校・塾に

 芸能人やスポーツ選手などで、昔「やんちゃ」だったと自慢げに言っている人がいますが、もし「やんちゃ」ということが結局他人に迷惑をかけることなら、それは恥ずべきことであって、決して自慢すべきことではないと思います。当時その人のまわりにいた人達は、それぞれに幸せを望んでいたはずであり、その人に迷惑をかけられ不幸になるために、生まれてきたわけでも、生きていたわけでもないのです。人を不幸にして自慢している、その姿は醜いと思います。
 「今の学校教育は、手のかからない子供の、心の摩耗の上に支えられている」−物静かな人やにぎやかな人など、いろんな個性があっていい。本人や家庭などに、人それぞれ様々な事情があるかもしれない。成長する過程で、周囲に対する不信・反発も芽生えるだろう。しかしそうしたことの一切は、まわりの人の幸せを壊していいという理由にはならない。
学校や塾でよく注意されている人はもちろん、そうでない人も合わせて、今一度自分を省みてみよう。自分は周りの人に必要以上のものを背負わせてはいないだろうか、と。あなたの心が狭いとき、まわりの人は必要以上にがまんしている。あなたの心が弱いとき、まわりの人は必要以上にがんばっている。心をあと少し広く、強くできたら、みんなが救われる。
やるべきことをやっている人、守るべきこと守っている人、あたりまえのことをあたりまえにしている人こそ、活き活きと勉強でき生活できる学校に、塾に、しなければならないと私は思います。